キーワード2014年09月07日

パソコンのメールサービスに、迷惑メールをブロックしてくれる機能がある。

最近あまり迷惑メールをチェックしていなかったが、久しぶりに迷惑メールフォルダーを見てみた。

特に想定外の事態は起こらなかった(笑)。

それにしても、今や僕個人だけでも一日50~100通くらいの迷惑メールが来ている。
国内の総迷惑メール数たるや相当なもんだろう。
これだけ迷惑メールの弊害が指摘されているにもかかわらず、未だ数が減らない、このパワーは、どこから来るのか?、逆に知りたいくらいだ(笑)。

ところで迷惑メールの内容は、多種多様だが、結局「金」もしくは「女(異性)=性」を「簡単に」手に入れられますが、どうですか?、という「勧誘」で、最終的にこれはこちらを「騙す(詐欺)」目的では、ほぼ一致しているようだ。

「金」と「女」を使っても、最終的に欲しいのは「金」なのだろう。
これは「金」は物質で比較的簡単「簡単に」扱えるが、「女」は人間なので「簡単に」手に入らないことは重々承知なのだろう。

おさらいすると迷惑メール=詐欺、のキーワードは
「金」
「性」
「簡単」
「勧誘」
といったところか。
これは、もう遥か昔からある事態で、結局人間はこの局面では全然進歩していない、ということなのだろう(笑)。

メールに限らず、これらのキーワードが日常的に出てきたら、詐欺の匂いがしないかどうか、チェックしたいもんである。

継続は力なり2014年08月31日

継続は力なり、というが、これは確かにそうだ。

勉強、趣味、特技、などいろいろな面で、そう言える。

継続していると、その技術自体の習得以上に、そのことに関するノリというのか、直観みたいなものも、習得されていくのがわかる。
例えば、何かを順番に習得していくと、次に来るのはこんな感じだ、と事前にわかってくるので、以前の何分の一かの時間で習得することができる、というような感じだ。

継続しないで、断続してやっていると、なかなかこの直観が育まれにくい。
断続のインターバルが長すぎると、尚更育まれにくい。

ものによっては継続は、一日5分足らずでもいいものもあるだろう。
一日5分を毎日することに意味がある。
勿論毎日が不可能な時もあるだろう。その場合は、とにかくノリを切らさないことが大切だろう。

継続とは、直観を育む為のものだ、ともいえるだろう。

待つ極意2014年08月29日

忍耐力が必要な局面に「待つ」時が挙げられる。
待っている間何も成すすべが無い時は、苦しいもんだ。
こんな時に忍耐力があるといい。
忍耐力があれば、長い時間待ち続けることも可能であろう。

ただ「待つ」時には、忍耐力の他に、ある種の意識の切替も効果的ではある。
すなわち「待つ」間に、他の作業をしたり、他のことを考えてみたりして、一時的に待っている状態では無い状態と同じ状態に意識を持っていくことである。
他のことを考えて、そちらに夢中になっている内に、いつしか待っているものがやってきた、などということになる。

これは「待つ」間に、すなわち「待たない」ようにすること、でもある。

つまり「待つ」極意の一つとしていえるのが、「待たない」こと、となるのである。

忍耐の時期2014年08月17日

自民党政権になって1年半以上過ぎたが、現在の多くの有権者は、自民が政権をとると、こうなる、という現象を、どれだけ痛切に感じているか、実態を知りたいもんである。

それが次回選挙のパワーになってくれればいいと思う。

ただ、その際受け入れ口となる政党がいないと困る。

民主党は、その第一党であった。

しかし、なかなか決められない政党だった、という印象がある。
なぜ、そうなってしまったか、というと、なんと民主党内に、自民党的分子がいたからだ、というのが、今は定説のようだ。それじゃあ決められるものも決められないだろう。
であるから、まずその分子が自民党に移るか独立するか何かしてもらわないと、民主党が受け入れ政党としての準備が整わないだろう。

ただそうした準備が整わない内に、解散総選挙をやってしまい、現政権を安定化させようという噂も出ている。

客観的に見れば、姑息な手段、ということだろう。

僕は個人的には、今の政権の大衆を度外視した右翼的な政策や、経済至上的な政策は、次の新しい政治への過渡的なものだと思っている。
つまり大衆を度外視したことによって、大衆の潜在パワーに圧力をかけ、それを熟成させ、それを引き出す為のプレッシャーなのだと、認識している。

であるから政治的な表面的な取り繕い政策や、金銭で解決する手段などは、早晩通用しなくなるのではないか?と思っている。

ただその為には、今は忍耐の時期だ、と思っている。
その間に、野党に頑張って準備を整えてもらいたいもんだ。

似ている?2014年08月10日

子供の頃、地方に住んでいた僕は、東京にかなりの憧れを抱いていた。
当時の銀座四丁目の交差点や新宿の街並みの写真を、飽くことなく、憧憬を持って眺めていた。

大学に入学することになって、東京の大塚に住むことになった。それは自分の意志では無く、当時の状況で、そうせざるを得なかった。

最初の大塚の印象は最悪だった。
大塚から王子方面に通ずる折戸通り、という通りを歩いたのであるが、僕の田舎には無かった都会の哀愁、街の裏の世界の侘しさみたいなのが、僕の心象にドッと流れ込んできた。
あの銀座四丁目の華やかさとは、うって変わった寂しさに、東京に裏切られたように感じた。

時は流れ30年以上経った。

僕は今折戸通りを王子方面に行った付近に住んでいる。
大塚には今でも良く行くし、今は銀座の風景よりも大塚の風景の方が、愛着があるし自分に合っているように思う。

僕は未だ独身で、結婚生活の経験が無いので偉そうなことを言える立場に無いのであるが、もしかしたら、街と女性との結婚に共通するところもあるのかなとも思う。

最初銀座のような華美な点に惹かれ、いざ結婚したら、大塚のような面が露呈し、裏切られたように感ずる。
しかし年月を重ねて、いつしか大塚面も愛せるようになる。場合によっては、そちらの方が好きになる。

独身男性の妄想でした。

アナと雪の女王2014年08月02日

「アナと雪の女王」を見てきた。

ディズニー映画らしく、愛もテーマになっているが、良く観るとこれが、なかなか深い。

愛情深いアナやクリストフ、俗物に堕すハンス王子等、言及したいキャラクターがいろいろいるが、図らずも先日見た「マレフィセント」にも共通した重要なモチーフ「魔力を持った女性(しかも女王)」として描かれている、エルサについて少しだけ触れておく。

エルサは自分が持っている強大な魔力をコントロールできず、それで自分の国を凍りつかせたり、アナを傷つけたりする。

そんなエルサが最後に魔力をコントロールできたのは、愛に目覚めた(この話ではアナへの、すなわち妹に対する愛)からであった。

実際の我々の生活においても、各種の才能を持ちながら、その芽が出ることなく、或いは才能に溺れ自滅して、その才能をつぶしてしまう、という人も沢山いただろう。

もし、愛を学んで、愛と才能を持って社会と関係していたら、その才能を存分に発揮できていたかもしれない。そんな教訓的な暗示も、このエルサの話から読み取れるだろう。

いや、才能を生かすことだけに限らず、生きていく、という上で、愛を学ぶ、愛に目覚める、ということは、とても大事な、もしかしたら人類の至上命題と言っても良いくらいのことであるとも思う。

なぜ存在するのか知りたい2014年07月21日

最近、ふと、なぜ音楽があるのだろう?、と思う。

音楽のコードなどを少し勉強すると、音や和音には面白い法則があることがわかる。

この音のシステム、一体誰が作り出したのだろう?、と思う。

ドミソを一緒に鳴らすと、なぜ心地よく感じるのだろう?。

このシステム、一体誰が、何のために、作り出したのだろう?、と思う。

シュタイナーの本などを読むと、少しヒントめいたことが書いてあって、ちょっと答えの一旦が垣間見える。

それは音、音階が、星、太陽系の惑星に関係している、ということだ。

今の所、関係している、ということはわかった。しかし何のために誰が?、というところまではわからない。

音楽、というのは良く思い出してみると、人生にすごく深く関わっていることが良くわかる。
そんな音楽というシステムが、地球に偶然生まれた、とは考えにくい。

やはり何らかの意図があって存在するとしか考えられない。

美しい音楽を聴くたびに、その意図とは、我々を何か天界などのような、我々の暮らす世界よりも上位の世界に導いているのではないか?、とも思う。

マレフィセント2014年07月13日

さいたま新都心のMOVIXに「マレフィセント」を観に行ってきた。

お恥ずかしながら、僕はアンジェリーナジョリーの主演映画を見たことがなかったのであるが、この一作だけを見た印象でも、すごくハマっている役なのではないか?という印象だった。

そして何といっても、スターウォーズファンなら、マレフィセントとダースベーダーを重ね合わせずには、いられなかっただろうと思う。
なぜ人はダークサイドに落ちていくか?、
そして悪が常に持つ、そのやるせない哀しさ、それを覆い込む悪の奥に垣間見える母性(父性)。
オーロラ姫が、マレフィセントをゴッドマザーと呼ぶところも非常に象徴的だ。

スターウォーズにおけるダースベーダーのストーリーのモチーフを女性版にすると、こんな感じになるんだな、という気がした。

ベースは「眠れる森の美女」という童話ではあるが、それはこのモチーフを描くために持ってこられただけであって、単に「眠れる森の美女」ありきの出来には収まっておらず、眠れる森の美女のストーリーを知らずとも、ダースベーダー女性版で独立して見ても楽しめるのではないか、と思った。(それ故ストーリーの結末は童話と違います(笑))。

男性の僕から見ても、マレフィセントはかなりカッコヨク見えるが、女性から見るとどうなるのだろう?、カッコイイという印象があるのだろうか?。

ともあれ、他にもフェアリーの世界描写や、迫力ある戦闘シーンなど、見どころは満載だ。
お勧めです。

これを発端にして2014年07月06日

先日政府は集団的自衛権の行使容認の閣議決定を行ったようだ。
今回の集団的自衛権の件では、さすがにメディアも危機を感じたのか、結構関連報道も多かったようで、そのおかげで今まで無関心だった若い世代にも政治認識が徐々に広がってきつつあるようにも感じられる。

現政権は、特定秘密保護法の成立、原発推進、大企業に有利な法人税の引き下げ、消費税増税など一部既得権益者に有利で一般大衆には不利益な政策を、国会にねじれ状態が無い内に世論は顧みず一気に決めてしまおう、ということで議論も不十分なまま決定してきているものもあるようだ。
集団的自衛権件もしかりで、すなわちここにきて政権の所謂「暴走」が特に目立つようになってきたようだ。
他にも我々の年金運用管理における株式比率の引き上げ方針など一見博打的にもみえる政策を導入しようとしたり、どうも民意とかけ離れた方向にどんどん政策が進んでいるようにも見える。

国民に不利な政策を決定する時ほど、政治家は「国民の為」などのように美辞麗句を並べるのは昔からの常套手段だ。
しかし、今の国民もそれほど馬鹿ではないので、福島原発を制御下にあると平気で公言する人物の言説を鵜呑みにして信じる人間も、もうそろそろ減ってくるのではないか。
これからは一層、今までの美辞麗句と現実の結果が、目立って乖離していくのではないだろうか?。
「政治家は、あの時ああ言ったのに、実際はそうなっていない」、そういう現象が、これからも様々な局面でもっと増えていくのだろう。
ただ政治家は、もし何かあっても、原発の時のように「不測の事態だった」などのように責任回避をする可能性はあるかもしれないが(笑)。

タイミングや行う意図の不可解な政策などは、それを実施した結果、誰に得があるのか?というのを探っていくと、黒幕がわかる可能性は高い。

集団的自衛権の容認で得をするのは、我々国民では無いだろう。別の誰か、時には外国の既得権益者であることもあるのだろう。「集団的」という言葉で、それがわかる。

一見耳あたりの良い政策も、その真相を探れば、一部の誰かが得をする為の壮大な茶番である可能性が高く、その度に国民は騙されてきており、犠牲になるのは、いつも何も知らない一般民衆だ。

他の第三者の為の政策を、国民の為だと偽って、説き伏せようとする手法は、詐欺の手口にも共通する。
昔からの詐欺の代表的な手法の一つは、無知な一般人を、とある人物が脅し脅迫し恐怖に陥れ、そこにその脅迫者から守ってやる、と善人風の用心棒が現れ、一般人は用心棒にガード料として謝礼を定期的に渡す、そして実は脅迫者と用心棒はグルだった、というパターン。
つまりは火の無い所に火を起こし、火が危険だから、火から身を守らなければいけない、その為に必要な資金を出せ、という論理。
更に問題をわざと難解にして説明し、不安感を増大させ、その後、「対応は全てをこちらに任せてください」といって主導権も金銭も一般人から奪ってしまう、という手法もある。
遥かな昔から至る所で、あの手この手でこうした詐欺的な行為が行われてきたのであるが、政治においてもそれと同じ手法をしていない、とは誰も言えないだろう。

政府が国民に説明が少ない、もしくはわかりにくく曖昧な説明をするのは、真実を全て説明してしまえば、絶対に国民は許さないであることがわかっているからだろう。
だから政府にきちんとした説明を求めても、こちらに納得いく説明は永久に出てはこないだろう(笑)。

この手の民衆の泣き寝入りは、昔から何度もあった事であるが、さすがに今のネット等が発達した社会では、今回の件を発端として、いつかどこかでこの民衆の虐げられた怒りは爆発するかもしれない(笑)。

憲法9条をノーベル平和賞に推薦する署名も10万を超えたそうだが、こうした反旗の芽は少しづつ見えてきている。
今後集団的自衛権の容認も関連法案が違憲判決されれば撤回もできるだろう。
ただ、これからも政府の「美辞麗句」には十分注意すべきだろう。その言葉には裏がある場合もあるし、裏が無く単なるその場の責任回避(無責任)、ということもあり得る。
とにかく全面的な信用は危険だ(笑)。

とりあえず2016年まで、我々が直接国政選挙で今の政府を変えることはできないが、それまでに、これからどのポイントで国民の怒りがどのような形で噴出していくのかは、ある意味楽しみだ(笑)。

最近はセクハラ野次問題とか、今までの政治家のモラルを問われる問題も出てきている。
今回の集団的自衛権の容認の問題を発端にして、今まで政治に無関心だった人が興味を持ったり、加えて政治とジャーナリズムの癒着問題なども、広く知られるようになるといいかもしれない。
それで今の日本の政治のレベルをもっと高度なものにするきっかけになってほしいもんである。

陰と芸術2014年06月29日

東京は梅雨真っ只中である。
基本的に雨の日は、太陽の光を浴びられない為、何となく好きになれないという人も多いだろう。

僕自身も、あまり好きでは無いが、過去人生を振り返ってみると、雨が好きな時代もあった。

それは中学生時代で、理由は全く単純で、雨が降ると部活が休みになる、からだった。
部活は野球部で、元来運動が苦手な僕は、しょっちゅう雨を願っていた(笑)。

高校時代は、そうした部活の縛りは無くなったが、良く考えてみると、学校まで6km位の距離を、雨の日は合羽を着て自転車で通っていた。当時は何も考えていなかったからか、さほど苦になった記憶が無いのであるが、今は、もうそんな無茶できそうもない(笑)。

大学時代は新聞配達のバイトをしていたので、雨雪風は、もう大敵、勿論雨は再び僕の敵となった(笑)。

あの頃から現在まで、雨が苦手、というのを潜在的な感じで引きずっているような感じだ。

ところで、雨の歌には名曲が多いと言われている。
昔の洋楽などでも「雨にぬれても」「雨に微笑みを」とか、稀代の名曲が出てくる。

ここでふと「だからか・・・」とも思う。
つまり、雨が皆苦手だから、逆に一所懸命美化するに至って名曲が生まれてくるのかもな、ということだ。
雨が好ましいものであれば、これだけ歌にはならなかったかもしれない。

じゃあ太陽の歌で名曲は、となるとビートルズの「Here comes the sun」とか、チューブの「シーズンインザサン」とか、まあそこそこ出てくる。

ただ、上に挙げた2曲は、前者は「太陽がやっと出てきた」後者は「夏よ(太陽)いかないでくれ」と、どちらも太陽が無い状態を相対的潜在的なモチーフに使用している。
つまり、雨=陰あっての太陽=陽、という図式が見えてくる。

もしかしたら、陰の状態の方がそれを芸術化しやすいのではないか?、という結論に至るのである。
もう一つ、芸術の一つの役割として、陰を陽に転ずる、ということがあるのではないか?、という推測も出てくる。