継続は力なり2014年08月31日

継続は力なり、というが、これは確かにそうだ。

勉強、趣味、特技、などいろいろな面で、そう言える。

継続していると、その技術自体の習得以上に、そのことに関するノリというのか、直観みたいなものも、習得されていくのがわかる。
例えば、何かを順番に習得していくと、次に来るのはこんな感じだ、と事前にわかってくるので、以前の何分の一かの時間で習得することができる、というような感じだ。

継続しないで、断続してやっていると、なかなかこの直観が育まれにくい。
断続のインターバルが長すぎると、尚更育まれにくい。

ものによっては継続は、一日5分足らずでもいいものもあるだろう。
一日5分を毎日することに意味がある。
勿論毎日が不可能な時もあるだろう。その場合は、とにかくノリを切らさないことが大切だろう。

継続とは、直観を育む為のものだ、ともいえるだろう。

待つ極意2014年08月29日

忍耐力が必要な局面に「待つ」時が挙げられる。
待っている間何も成すすべが無い時は、苦しいもんだ。
こんな時に忍耐力があるといい。
忍耐力があれば、長い時間待ち続けることも可能であろう。

ただ「待つ」時には、忍耐力の他に、ある種の意識の切替も効果的ではある。
すなわち「待つ」間に、他の作業をしたり、他のことを考えてみたりして、一時的に待っている状態では無い状態と同じ状態に意識を持っていくことである。
他のことを考えて、そちらに夢中になっている内に、いつしか待っているものがやってきた、などということになる。

これは「待つ」間に、すなわち「待たない」ようにすること、でもある。

つまり「待つ」極意の一つとしていえるのが、「待たない」こと、となるのである。

なぜ存在するのか知りたい2014年07月21日

最近、ふと、なぜ音楽があるのだろう?、と思う。

音楽のコードなどを少し勉強すると、音や和音には面白い法則があることがわかる。

この音のシステム、一体誰が作り出したのだろう?、と思う。

ドミソを一緒に鳴らすと、なぜ心地よく感じるのだろう?。

このシステム、一体誰が、何のために、作り出したのだろう?、と思う。

シュタイナーの本などを読むと、少しヒントめいたことが書いてあって、ちょっと答えの一旦が垣間見える。

それは音、音階が、星、太陽系の惑星に関係している、ということだ。

今の所、関係している、ということはわかった。しかし何のために誰が?、というところまではわからない。

音楽、というのは良く思い出してみると、人生にすごく深く関わっていることが良くわかる。
そんな音楽というシステムが、地球に偶然生まれた、とは考えにくい。

やはり何らかの意図があって存在するとしか考えられない。

美しい音楽を聴くたびに、その意図とは、我々を何か天界などのような、我々の暮らす世界よりも上位の世界に導いているのではないか?、とも思う。

修業から調和へ2014年06月15日

以前は人生というものは、理不尽で辛く、そこで忍耐力を養うという修業をする為にあるのだ、という風に思っていた。

これは、ある局面では正しい見方なのかもしれない。
でも今は、もっと別な考え方をするようになった。

人生が理不尽かどうかは、自分が決めているのだ、と。
自分の中の潜在意識、もっと言うと、魂と呼べるものなのかもしれないが、そうした内奥の自分、というものが、周りの世の中の在り方を決めているのだ、と。

すなわち自分が、世の中は理不尽だ、と思えば、その通りに展開していくし、そうでない、と思えば、そうでなく展開していく。

そして、理不尽かどうかは、自分の魂が、自分の成長度合いに応じて、「今は世の中を理不尽だと思い過ごす時代を経るべきだ」と判断して、理不尽にしている、と。

僕は、人間は最終的には世の中と調和していくべきだと思っている。
ただ、その途上で調和に至るまでの調整の時代、すなわち世の理不尽と戦う時代、も経ていかなければならない、とも思っている。

宇宙の仕組みとして、自分の心の中を周りの世界が反映する、というのがある。
周りの世界の理不尽は、すなわち自分の心の中の歪み、理不尽、でもあるのである。
それを矯正していく時代、というのは必要な時があるだろう。

只厳密に言うと、世の中に理不尽というのは無い、と思っている。
世の出来事には、一見理不尽に見えても、全てそれなりの理由がある。
おそらく、その全てを知ることができれば、人はお互いに憎しむことなく、お互いを赦すこともできるのだろう。
理不尽、と感じるのは、我々が、そのことについての情報を全て知らされていない為に起こるのだろう。

しかしながら実際は、その全てを知らされることは無い。少なくともこの物質世界に生を受けている間は無い。

全てを知ることによって、その全てを知った、という条件付きで人は他を赦すことができるだろう。
しかし条件付きの赦しなら、誰にでもできるだろう。
我々に要求されているのは、もっと高度な、無条件の赦し、無条件の愛、というものだ。

太陽は、地球の善悪に係らず、いつも無条件で地球に光を供給してくれる。
我々は最終的に、あの太陽のように、無条件に世の中に光を供給する存在になることを、内奥で目指しているのだろう。
条件によって、光が出たり出なかったりする不安定な状態では無く、常に光を届ける存在になることを僕らは内奥で望んでいるのだろう。

おそらくであるが、「全てを知ってから無条件に愛す」のでは無く、「無条件に愛した時に全てがわかる」のだとも思う。

ともあれ理不尽な世の中に疲れ切った時は、「世の中は実は素晴らしい」と思い始めてみるのも良いだろう。

老いの中の美2014年06月08日

自分の親が老いていく姿を見るのは、普通は辛く哀しいものだ。
特に病気をし、日毎に身体の様子も変化していくのであれば、尚更だろう。

しかしそれは、僕らが物質的側面のみに焦点を置いているから、哀しみが出てくるのだろう。

人間とは、心・魂・そして身体も含めた総体を言うのであれば、老いる、ということは、成熟、すなわち、今世の人間の人生の総決算でもあるだろう。

であれば、老いることの中に、心の成長、魂の成熟、が見られるのであれば、実は老いの中に、人間の美しさ、を見ることもできるのかもしれない・・・。

上記のようなことを、僕がいつも拝見させていただいているある方のブログの記事を読み、ハッと気づかされた。

僕自身も親の病気により同じような境遇を体験しているが、親の老いの中に哀しみしか見いだせていなかった自分がいた。
しかし、老いる、というのは、人間の本来が魂や心であれば、哀しみだけでは無い、もっと肯定的な側面を持つものである、ということに今更ながら気づかされた。

老いを、劣化、と見てしまうのは物質的側面のみを見ているからであって、魂から見れば「成熟」になる。

シュタイナーの本に載っていたエピソードを、思い出したが、キリストが道を歩いていると、腐った犬の死体があり、人々はそれを見て口々に嫌悪を表し忌み嫌った。しかしキリストだけは、犬の歯並びが美しい、と言ってその犬を褒めたそうだ。
これはどんなことでもその中に長所を見つけることの大切さのエピソードとして出てきた話であるが、キリストは、死体、という物質体のみならず、もっと大きなものも含めて見えていたのだろう。

山けんさんのブログ
http://ameblo.jp/yamamotokenta/
http://ameblo.jp/yamamotokenta/entry-11873380068.html

今度こそ恐れを手放す2014年04月20日

こないだドリーンバーチュ氏の大天使ミカエルのオラクルカードというのを引いてみたら、出てきたメッセージが、「Let go of fear, Now(今度こそ恐れを手放しなさい)」というカードであった。

ところで、ここ最近は、以下のような現象が引き続いて発生する。

2014年04月15日 皆既月食
2014年04月20日 イースター(復活祭:春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)
2014年04月22~23日 カーディナル・グランドクロス
((牡羊座天王星、蟹座木星、天秤座火星、山羊座冥王星と活動宮に座して、互いに十字を形成)
2014年04月29日 金環日食

何やら、天界は大忙し、という感じだ(笑)。

僕自身も、この天空のスケジュールに合わせているのかどうかわからぬが、今年に入って、身辺の環境の大きな変化を経験している最中、という感じだ。

今までにも、かなり動揺するような事態も発生してきているが、ポイントは「恐れを手放す」という言葉に象徴されるように、要は、とにかく心配するな、ということらしい。

おそらくこの変化は、最善の状態に向かうための準備でもある、ということなのだろう。

僕に限らず、今大きな変化を体験している人は多くいるようだ。

打つ手に困った時は、もがくのを放棄し悩むのを一旦止め無心になり、大きな流れに身を委ねてしまう、というのも一つの方法だろう。

安心しなさいとのメッセージ2014年04月06日

四月から消費税が8%になった。
今回の増税には納得いかないものも多々ある。
上がってしまったものは、もうどうしようもないが、いつか撤回されることを願う(笑)。

ところで今日、赤羽のビバホームに掃除関連の品を買いに行ったら、増税の憂鬱感を一時晴らしてくれるような、写真のようなちょうどの金額になった。レジの人もちょっとテンションが上がっていたようだ(笑)。

4000という数字がラッキーなのかどうかは、わからぬが、キリの良い数字だと、確かに何か良いことの前兆ではないか?と勘ぐってみたくもなる。

ちなみに4000を単数変換し、カバラ的に「4」という数字で、そのメッセージをドリーンバーチュー氏の「エンジェルナンバー(実践編)ダイヤモンド社刊」で調べてみた。

“天使が、あなたとともにいます。彼らは4という数字を送って、あなたの祈りが届き、助けていることを知らせ、安心させようとしています”。

天使は常に我々とともにいてくれるという。しかし特にこちらが心配したり迷ったりしている時は、こうした数字を送ってメッセージを届けてくれるそうだ。

今日は、特に安心することにしよう(笑)。

元は同じ2014年02月23日

ある力を間違った方向に使うと、裏切りになる。
正しく使えば、サプライズになる。

又、ある力を間違った方向に使うと、破壊になる。
正しく使えば、浄化になる。

又、ある力を間違った方向に使うと、悪口・妬み・嫉みになる。
正しく使えば、向上心になる。

又、ある力を間違った方向に使うと、窃盗になる。
正しく使えば、機転や力強い生命力になる。

同じパワーも方向性が違えば善にもなるし悪にもなる。

できれば善として使いたいもんだ。

愛がベースにあれば、その方向を間違うことは無いと思っている。

一緒にしない方が2013年12月29日

不幸な出来事というのは、やはり自身の弱点を克服し、強くなる為に与えられた賜物である、ということは言えそうだ。

しかし、こうした考えに埋没し過ぎてしまうと、次第に麻痺してきて、不幸な出来事が起きても、「これは不幸では無い」と、出来事自体や、自分の感受性を否定して無理矢理本心の動揺を抑え込んでしまったりしてしまいがちだ。

ここで大切なのは、幸せは幸せ、不幸は不幸、と正しい捉え方をする姿勢を養うことだと思う。

そうでないと、幸福も不幸も一緒くたにしてしまい、幸福があっても素直に喜べず、不幸をわざわざ呼び込むようなことをしたり、やがて「人生は試練」「人生は苦」というようなネガティブな捉え方に陥ってしまう可能性もある。

そして幸せは幸せ、不幸は不幸、と捉えないと、いつしか進むべき道の方向性を誤ってしまう可能性はあるだろう。

幸せは素直に享受し、不幸は素直に悲しみ、ただ、どちらも与えられた賜物ということに感謝することが大事なのだろう。

プア充に思う2013年11月04日

最近「プア充」という生き方が注目されているそうだ。
「プア充」とは、お金が無くても充実した生活を送ることというような意味だそうだ。

プア充の根底には、経済成長を続けなければいけないという強迫観念に捉われた今の日本社会へのアンチテーゼという意味合いもある。
であるから、この考え方を、高度経済成長やバブル期を生きた人々は簡単に受け入れがたいのかもしれない。

「プア充」などというと、貧乏人の負け惜しみだと言われそうだし、プア充の非生産的側面等の否定的な部分を批判する人々もいるだろう。

しかし僕は、「プア充」という考え方が出てくること自体が、非常に良い傾向だと思っている。

「プア充」の是非は兎も角、そうした経済至上主義に対するバランスをとるべく出てきた考え、という点に僕は着目したい。

我々がプア充を受け入れていくには、まずいろんな意識を変えていく必要があるだろう。
すなわち、心理学でいう「認知的」意識改革が必要だろう。

今のほとんどの経済界や、政治は、「経済成長」という魔物に憑りつかれたようであるとも言えるだろう。

成長しなければいけないのは、経済では無く、我々の道義心道徳心とか、それを含んだ精神的な部分であって、経済の成長は、有限な物質世界の産物であり、人類が目指すべき第一義の命題では無いと思う。

有限な経済成長というものは、いつか限界がくる。下手すれば破綻・崩壊が待っていることもある。
誰かが儲かれば、誰かが損する。
世界のいろいろな情勢が、それを示している。

経済至上主義の考えは、かつては良かったのだと思う。
ある時代においては非常に有益な考え方だったと思う。
戦争で何も無くなった所に、経済至上主義は、逞しく力強く復興する力を与えてくれたのだと思う。

しかし、そうした考えも、日本人は実はもう卒業すべき段階まで成熟し成長していて、もはや次の段階にシフトしていい、シフトすべき時期に差し掛かっているのだと僕は思っている。

その象徴的な考え方が「プア充」ということなのだろう。