日傘オジサンわかってほしい2015年08月02日

散策好きには、この季節暑すぎて、厳しい。
暑さ対策としては帽子や濡れタオルを使用していたが、この度、新兵器を導入した。
メンズ用の日傘である。
かなり快適で、これなら猛暑下の散策が、いくらでもできそうだ。

メンズの日傘に不快感を示す女子もいると聞く。ただ彼女達は草食系の男子がお肌の日焼け防止で日傘を使用するだけと曲解してるようだ。

数少ない趣味の散策を熱中症に
奪われないよう、必要に迫られ日傘を使用しているオジサンもいることをわかってほしい(笑)。

古い道2014年03月23日

街歩きをしていると、古く昔からある通りを歩くとホッとすることが良くある。

旧街道と呼ばれている道などがそうだ。

僕はいつも、こうした古い道は、なぜホッとするのか?考える。

まだ明快な答えは出ない。

古い道に際立った特徴は確かにある。

幹線道路化を免れ、車があまり通らず比較的静かである。

適度に住宅や商店が密集し、寂しさを感じさせない・・・等々。

ただ、車が通らなくて静かで、建物が密集していても、ホッとしない道もある。

やはり古い道には、古い=長く続いている何か、があるように感ずる。

その何かは、まだ良くわからない。

その謎を求めて、明日も僕は街道を歩いていく・・・なんてね(笑)

どちらかといえば懐かしがりに来た2013年11月17日

今日は府中の試験場に免許の更新に行ってきた。

前回は砂町の方で行ったので府中は久しぶりになる。

試験場に行く前に、免許を取るために通った、東府中の教習所の前も歩いた。
こちらも久しぶりだった。15年以上ぶりだった。
お笑いコンビのバイキングのコントで、教習所に懐かしんで来るというネタがあったが、何だか、それと似たような感じになってしまった(笑)。

その教習所沿いに品川街道というのが通っている。
今日は免許更新の前と後に、この品川街道を少し歩いた。

昔東京は稲城市というところに住んでいて、街道好きの僕は、実はこの品川街道は、その頃良く自転車で来ていたりしたもんだった。
つまりは、この品川街道も久しぶりだった(笑)。

最近は日が短くなってきて、夕暮れになると、それも日曜の夕暮れは、どうにも切ない心持になってくる(笑)。

そして今日は、試験場、教習所、品川街道、と懐かしい場所を久々に味わったことで、なぜか胸が一杯になる思いだった(笑)。

免許更新に来た、というより、懐かしがりに来た、ような一日だった(笑)。

羽村の堰2012年04月15日

今日はウォーキング同行の士で、かつての職場の先輩のKさんと共に、東京は羽村の堰(せき)周辺まで散策に行ってきた。

僕は今年で上京30年になるが、まだ羽村の辺りには行ったことがなかった。

出発は西武線の玉川上水駅からで遊歩道を経由などして向かった。
ちなみに、羽村の堰(せき)とは玉川上水の多摩川からの取り込み口である。

羽村の堰(せき)近辺は桜の名所で、今日も花見客が多数見かけられた。

ただ都心の名所のような、ごったがえし感は無く、程良い込み具合で、多少は桜が散り始めてはいたものの、見頃の状況で、この位の込み具合なら、穴場だな、と感じた。
花見がメインの目的では無かったが、一応多摩川土手に咲いていた桜の元でKさんと共に、モテナイ独身アラフィフ男性二人で缶ビールで乾杯をした(笑)。

更に、羽村の堰(せき)の近くには、チューリップ畑もあり、折しも「チューリップまつり」と称するイベントの最中であった。

チューリップの方は、最盛期にはまだという感じではあったが、一面に咲いている区画では、非常に美しいチューリップの景観が楽しめた。

帰宅すると、曇天まじりにもかかわらず結構日に焼けていた。
ウォーキングでは日焼けも考慮しておいた方が良い。快晴の中日中歩いていれば、こうした春の陽射しでもかなり焼けてしまうものだ。

ちなみに、外出して日の光を浴び自然に触れたりすると、帰宅すると肌つやが格段に良くなっているのがわかる(笑)。

僕ならば、もし若さの秘訣があるか?と聞かれれば、迷わず散歩と答えたい(笑)。

緑をもっと2011年09月25日

エアコンで冷房の設定温度を2℃高くし、扇風機を併用すると節電になる、ということで、今夏は扇風機も新調し、最初は半信半疑の内に始めたところ、思いのほか電気使用量が減っていることがわかった。
やはりこの方法は非常に効果的だったようだ。
真夏の盛りにも扇風機を併用すれば全然しのげるし、当分は夏はこれでいけるのでは無いかと思う。

ところで昨日は天気も良かった為、先輩のKさんと共に、アラフィフ独身男性2人で、多摩湖に散策に出かけた。
Kさんとは以前にもウォーキングイベントに参加したり等、散歩に関しての同好の士という感じである。

多摩湖の周辺は、そのウォーキングイベントでもコースになっていたルートで、我々は当時そのコースを選択していなかったので、今回プライベートでチャレンジしてみることにした。

ルートは僕らが設定したのは、西武線の小平を出発し、多摩湖を回って武蔵大和の駅を終点にした大体20km弱くらいで、ほぼ日中で一杯一杯回れるようなコースだった。
多摩湖の近辺は途中、車道と併走するところもあったが、それ以外は深い緑が豊富にあり、久しぶりに緑に癒された感じであった。
やはりたまに自然に溶け込むのは精神衛生上非常に良いことである。

緑があると、気温も違うことがわかる。
都心はやはり緑が無さ過ぎる。
ウチの近くも、沿道に植樹したら大分雰囲気も違うのになあ・・・という場所が沢山ある。
景観も夏場の気温調整も緑があることで大分違うのになあ・・・と思う。
行政の人に一考を促したい(笑)。

ふと佐原へ2011年08月16日

お盆休みの時期は毎年大抵は帰省している。
今年は経費節減の為、帰省は断念した。
変わりに日帰りで、普段行かない東京近郊の場所に行ってみよう、とふと思い立ち、千葉県の佐原(さわら)という所に行って来た。
北総の小江戸と呼ばれ、たまに古い町並みがテレビなど紹介されたりしている街で、日本地図(大日本沿海輿地全図)の伊能忠敬の縁の地でもある。

行きには千葉交通の高速バスを使った。
浜松町駅から出ており銚子まで行ける路線である。
料金は佐原駅北口まで1700円。
予約は不要で料金後払い、ということで、手軽に乗れていつも空いているのかな、と思った。
確かに浜松町を出たときはガラガラだったが、高速に乗る手前のもう一つの停留所である、東京駅前から一気に人が乗ってきて、ほぼ満席状態になった。浜松町から乗って正解であった。
最初箱崎辺りが渋滞気味ではあったものの、それを過ぎると快調になり、ほぼ予定通り佐原駅北口に到着。

行き当たりばったりな感じで来てしまったので、とりあえず駅で何らかの情報を得ることにする。
観光案内所のような所があったので、パンフレットを探していると、そこのオジサンが声をかけてくれた。
市街の便利マップみたいなのが有料であるというので30円で購入。
ちなみに、その30円はマップに載っている市内の食堂に行った時に、マップを見せると30円割引になり、実質キャッシュバックできるシステムになっている。
ちなみに後でもう一度述べるが、敢えて僕はキャッシュバックしなかった(笑)。

オジサンにしばし説明を聞き、道などを教えて貰う。
オジサンに写真見せてもらい教えて貰ってわかったことで、実は市内の伊能忠敬の旧宅など文化財を含め市内にある古い町並みが、先の東日本大震災によって被災してしまい、屋根などが崩れ落ちたりしてしまったものがあるそうだ。
文化財は国の所有なので、手続き等の関係で修理が遅れ、最近ようやく着手できたようだ。
他にも川自体が隆起したり、液状化があったり、今回大震災の爪痕が、こんな所まで!、と切ない思いになった。

街のいたる所には「復興」の文字が書かれたポスターがあり、そこには「観光客の皆さんが訪れてくれるだけで癒しになります」といった地元の方々の切なる願いが書かれていた。

僕はメインストリートでもある小野川沿いの古い町並みを歩き、そして、裏道をグルグルと散策して回った。
小野川に観光客を乗せた船が通る。水郷巡りもできるようだ。
街の印象は、僕の行ったところで言うと、津和野、もしくは川のある感じは九州の柳川に雰囲気は似ている気はする。
ちっちゃい津和野、ちっちゃい柳川、というところであろうか。
至る所に文豪の碑などがあって、文化人にも愛されていた街であるようだ。
伊能忠敬の旧宅は前述のとおりに修復中で、すぐ正面にある記念館も月曜で休館日であった(笑)。

ちなみに伊能忠敬は50歳になってから測量術を学び、56歳から全国測量の旅に出る。
50過ぎてからの人生の方が、その後に大きくクローズアップされている。
僕も来年50を迎えるので、伊能師匠・伊能兄さんのガッツにあやかりたいもんだ(笑)。
ちなみに、この佐原は伊能忠敬の故郷では無く、忠敬が18歳の時に婿養子に入った伊能家が存する街であるらしい。マスオさん目線で言うと、磯野家がある桜新町、ということになろうか(笑)。

メインストリートを一回りした後、マップにも載っていた「東洋軒」という洋食店で昼食をとることにした。大正25年創業の老舗だそうだ。
見知らぬ街の古い食堂などに一人で飛び込みで入るのは、ちょっと勇気がいるものだ。
こういう時はテレビ東京でやってる「モヤモヤさまぁ〜ず2」のさまぁ〜ずのノリを思い出しながら、モヤモヤ好奇心前面で突入する。

入ってみると、まだ僕以外は老夫婦の客が一組で、混んではいなかった。
ただ店員が出てこない。まさにモヤっている(笑)。
5分くらいしたらようやく厨房に人影が見えたので声をかけて、ランチと一人打ち上げ用の生ビールを注文した。
ランチは新鮮なお新香がついて、メインは一口カツエビフライ、唐揚げなどの揚げ物にミニハンバーグと出汁巻き卵、サラダがつく。
ちなみに全品にコーヒー付き。
揚げ物はオイシイのは勿論のこと、お新香などがちゃんとしていて老舗感があり満足であった。
900円+生ビール500円で1400円。

「東洋軒」もマップに記載されているので30円割引が出来たのであるが、実はこの店、外からみたときに、屋根にビニールシートがかかっているのが見えた。震災で屋根が破損したらしい。
少しでも復興支援にと、敢えてマップ割引はしないでおいた。

それなのに(笑)、お勘定を払う時に、最初900円、とこちらの想定外の料金を言われ、思わず聞き返してしまった。生ビールを勘定に入れるのを忘れていたようだ。せっかくこっちが割引不要にしてやってるのに、お人好しすぎるやろっ!!、とツッコミたいところであったが、勿論1400円全額を支払って店を出た。

その後、もう一回り街を巡って、一応復興支援の為にと地酒も購入しておいた。
実は最近酒は控えているので、今日はビールも飲んでしまって酒酒と健康維持に反する流れになってしまった。
でもここは復興支援の方が大切!、という大義名分がある(笑)。
ともあれやはり、その地元に何らかのお金を落としていくのが、一番支援にはなるようだ。

正直な感想を言うと、街自体は実際のところは震災前から既に衰退の傾向があったように見受ける。
こうした街に特徴なのは、若者の姿や若者の集まる場所が余り見受けられない、ということだ。
古い街だと若者が安心していられる場所が少なく、若者が寄りつかなくなる傾向になりがちである。
ただ若者が集まるような施設を作ると、今度は風紀が乱れたり、文化施設と相容れない、などの問題が起こる。理想的な共存は難しい所だ。
こういう点は、京都、鎌倉などの街や、僕の住んでる近くの老人の原宿巣鴨などの街を見習って、佐原にも復興してもらいたいもんだ。

帰りはルートを変えて電車で帰ってきた。
佐原から成田まではJRで、空いていたし、景色は結構広々とした田園地帯をのんびり走っていく感じで非常に良かった。
この辺は小さい山が多く千葉の特徴的な景色だと思えるが、古代の東京も、こんな感じだったのでは無いだろうか?、とふとそんな思いがよぎった。

その後は、そのままJRで常磐線に入るというルートもあって非常に迷ったが、特急に乗るため成田からは京成線にシフトした。
成田空港からの帰省客で混雑の懸念があったものの、思ったより混まずに1時間程で無事日暮里に到着することができた。

やはり近郊でも普段訪れない地を訪れるのは精神的にも良いものだ。
帰宅後も、すっかり千葉感・佐原感に満たされていた休日であった。

暗渠2011年08月07日

暗渠(あんきょ)とは、川や用水路に蓋をして閉水路になっているものを言う。
東京には、この暗渠が沢山ある。

僕は昔上京する前までは、東京は「関東平野の一部」と習ったので、平べったい土地かと思っていた。
実際住んでみると全然そんなことはなかった(笑)。
坂は無数にあるし、〜山という地名も沢山あり、要するに台地地形なのである。

その台地地形を更に複雑にしたと思われるのが、遙か昔は東京にも数多く流れていたと思われる川である。
今は、ほとんどが暗渠となり、その面影は坂の存在から類推することぐらいしかできなくなっている。

僕のような後から東京に移り住んだ輩などは、もし川が暗渠にならずに残っていたら、さぞかし東京も風情のある景観が残ったのではないか?と、残念に思う時がある。
僕の住む地域の近くにある大塚の南口に、かつて繁華街として栄えた三業通りというのがある。
その三業通りにも、かつて川があったようだ。
もしかしたら京都みたいな風情を醸し出せたのかもな?と思う。

しかしこうしたノスタルジー風の願望も、後から東京に移り住んだ輩のエゴの現れにすぎないようだ(笑)。

そもそもなぜ暗渠になってしまったか?ということを調べていけばわかることであるが、暗渠になる前は、水難事故や雨量が激しい時の川の氾濫による洪水・浸水など、地域の住民の頭痛の種になるような問題が多発していた場所が数多くあったようだ。
であるから、暗渠は完成した当時、地域住民にも歓迎されていたものが数多くあったようだ。

よくよく思い出してみると、実は僕の故郷の実家のすぐ近くにも、かつて小さな川が流れており、僕がまだ上京する前には、既に暗渠になっていた。
暗渠になる以前には、毎年夏や台風の季節くらいになると、一年に1〜2回は必ず、家が浸水していた。
暗渠になってからは浸水が無くなって大変有り難い想いをしたことを覚えている。
川に落ちたこともある(笑)。
当時中学生くらいだったろうか、兄弟の面倒をみていて、三輪車か小さい自転車に乗って手本を見せようとしていたのが勢い余って川に突っ込んでしまった。
運悪く、丁度近くの保育園の保母のお姉様方の帰宅途中に遭遇してしまい、川から這い上がってきた化け物然とした姿を悲鳴混じりに見られてしまい、大変恥ずかしい想いをしたのを今でも覚えている(笑)。

後からきたものにとっては、一見否定的に見えるものでも、それが出てきた当初の思想は当時の人々の善意によって成されたものは多い。
それが時代の移り変わりや我々の意識の変化と共に、状況にそぐわなくなって不要のモノに見えてしまうこともある。

暗渠に限らず他にも数多く、そうしたものがある。
中には暗渠と違い、実際に不要になってしまっているものもあるだろう。
しかし必ず当初は善意によって始められたはずだ。
もし捨てるにしても、そうした当初の善意を、少し思いめぐらせて見るのも、捨てるモノに対する良い供養になるに違いない。

緑のヘルシーロード2011年07月18日

ウチのある東京都北区から荒川に入って、芝川の水門から芝川沿いに北上する。
芝川にはサイクリングロードが整備されていて外環道くらいまで行ける。
あとは、そこから少し行くとかつての見沼代用水沿いも遊歩道が整備されているので、そちらへシフトすると、大宮辺りまで、大体自転車で二時間半くらいで行けることがわかった。

自転車や散歩は金がかからずに楽しめる貴重なレジャーだ。
今日は芝川に入って、鳩ヶ谷辺りですぐに見沼代用水の方へ行って、そこから北上した。
いつもは結構中高年の人が多く歩いていたりするが、さすがにこの暑さで人出はかなり少なかった(笑)。

さすがに炎天下に歩くよりも、自転車の方がこういう日は体感温度が下がるのでイイかもしれない。
ただ芝川は、行程に日陰がほとんど無いので、真夏の快晴時は、自転車もお奨めできない。
僕もそれを危惧して早々と見沼代用水へシフトした。
一応普段ほとんど被らない帽子も被って水分も補給しつつ、暑さ対策はしながらの走行ではあったが、暑いことは暑かった。

まあ見沼代用水の沿道は別名「緑のヘルシーロード」として埼玉県が整備しただけあって、日陰も結構あるので、夏のサイクリングにはイイかもしれない。春秋は散歩には丁度良い。
しかも行路が蛇行したり細かったりで、大きな川の一本道のサイクリングロードより、変化を好む人にとってはイイかもしれない。

いつも「緑のヘルシーロード」に入るときは、芝川から見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)という所で入る。
通船堀には公衆便所もあって、僕の中では、この通船堀が、なんか休憩拠点というか折り返し点というか、そういう一つの節目のポイントのようになっている。
今日は、鳩ヶ谷を通る旧日光御成街道の交差点辺りから「緑のヘルシーロード」入っていって、通船堀で引き返してきた。

往復で大体4時間くらいの行程で、運動としてはまずまずの量だと思った。
ちなみに家に帰ってから、Ipodのアプリで「タクっちゃう」というのがあって、地図上にスタートとゴール地点を設定すると、その間のタクシー料金を出せる便利アプリがあり、それでおおよその距離も出せるので、ルートは全然違うが大体近いルートで出してみたら、片道ほぼ15km、往復で30kmという数字が出た。
まあ、まずまずだろう。

スカイツリー2010年02月14日

 新東京タワー(東京スカイツリー)も半分位できあがってきたようだ。
 僕の部屋からも、上部が見えるようになってきた。

 今日は建設中のスカイツリーの麓まで、サイクリングがてら自転車で見に行ってきた。
 僕の家からは大体自転車で1時間くらいだ。ちなみに電車の最寄り駅は都営浅草線の押上になる。

 完成すれば高さは634mになるらしいが、土台部分は東京タワーに比べ思いの外、幅が無く、しかも横がすぐ北十間川という川で、耐震大丈夫かよ?と素人目には心配になってしまうほどであったが、日本の建築技術は、そんなことはカバー済みなのだろう。

 北区に越してからは、休日など時間があれば、こうした東京の下町方面などへ自転車でブラリと出かけることが多くなった。
 最近は東京東部の地域を走っていると、このスカリツリーが何かと良く見かけられるようになってきた。
 今のところスカイツリーの大きさは、まだ半分だが、もう結構な威容を誇っている。
 もう確実に東京東部地域に大きな影響を与えつつある気がする。
 僕個人的にも、このスカイツリーは、サンシャイン60に次ぐ東京北部地域居住の象徴として少なからず心理的に、その存在が大きくなりつつある。完成すればおそらく僕の部屋からも上半分が見られるはずなので、ちょっと完成が楽しみ、という思いもある。
 
 押上の北部の向島辺りは下町で、それこそ昭和にタイムスリップしたような町並みもある。
 僕の田舎も僕がいた頃は下町然としていたが、最近はかなり様変わりし、そうした景色も少なくなってきたが、この東京は僕の田舎以上に、そうした景色は保存されている。

 この近辺には、墨田川が流れているが、遊歩道の辺りなどには、まだホームレスの方の家などもある。
 スカイツリーの威容が21世紀の象徴的なものだとしたら、その周りの現代社会の病的風景との対比が何か非常に心に迫ってくる。まさに21世紀の光と闇を一辺に見ているようだ。

 そうこう言いながらもスカイツリーは日に日に完成に向け着工は進んでいる。
 まだ半分の完成度にもかかわらず、休日ということもあってかスカイツリーの麓には既に、僕以外にも結構見物人が多数いた。外人観光客やツアー旅行者風の集団などもいた。
 押上の辺りや周りの下町なども、スカイツリーの完成と共にきっと大きく変貌していくのだろう。

 写真は、まだ3分の1くらいの頃のスカイツリーを隅田川の白髭橋から見た遠景。

東京2009年04月09日

 最近日が長くなってきたので、仕事終わりに時間があると、皇居の横を通って帰ったりしている。
 まだ桜も大丈夫なようで、その花見客や、相変わらずのジョギングの人達などで賑わっている。
 ちなみに僕は日比谷方面から九段下の方を回って歩いているのであるが、ジョギング陣も同じ方向、山手線で言うなら内回りの方向に走る人しか見ない。これはジョギング陣に暗黙のルールがあるのか、はたまた暗黙では無く公的なルールなのか、はたまたたまたま内回りしかいなかったのか、その辺の事情は全く関知するところでは無いのでわからない。

 それにしても、この江戸城というのは、建造物として見た場合、その石垣の威容だけでも、相当な迫力を持つ、今でも、その迫力には圧倒される位のものである上、ましてや当時としては権力者の力を見せつけるには十分な建物だったのではないか?と思った。
 そうした戦闘的な側面でなくても、街としての景観として考えた場合も、地方から来た者、初めて見た者などは、さぞインパクトを受けたことだろう。
 僕など東京に出てきたばかりの頃、池袋の西武の横の長さに圧倒された記憶がある。それを考えると、この江戸城なども同じように見る者を圧倒したことであろう。
 そういえば現在の銀座にあった老舗の呉服屋の建物が、当時としては横長で大きく、地方人を圧倒したという話があったのを思い出した。江戸の街の都会ぶりが伺われる

 皇居側に目を向ければ、そうした江戸への想いに駆られる一方、二重橋辺りから東京駅、日比谷大手町のオフィス街に目を向けると、やはり、「ここは東京なんだ」という想いが改めてわき起こってくる。こんな感じは、やはり日本では東京にしか無いだろう。

 渋谷・新宿・六本木なども現在の東京の顔を持つ街として発展しているだろう。
 しかしやはり、地方人の僕が幼少の頃から抱いていた首都であり大都会である東京の持つ大きさ重さ、そしてちょっとの恐怖感みたいなものは、この辺りの景観を見ていると、ああ、ここなんだな、ここにあるんだ東京は・・・と、しみじみと思う。

 ただちなみに、やっぱりここら辺の外堀・内堀は、車通りが激しく、毎日歩くのは、僕には、ちょっとシンドイかも。皇居の中を歩行者の通れる道があればいいのにね。

 写真は、わかりづらいけど北の丸辺りでまだ満開の夕暮れの桜と、たまねぎ。