冷え対策 ― 2012年02月05日

昔から節分には邪気が来ると言われ、それで豆まきの風習ができたりしたらしい。

僕も見事邪気にやられてしまった(笑)。
土曜日から喉が痛くて、悪寒ばかりがする。
典型的な風邪の症状だ。

これを邪気の来襲というのならば、確かにそうだろう(笑)。
ただ豆を撒いて、この邪気が退散してくれたかどうかは、甚だ疑わしい。

幸い寝込むほどでは無かったので、ちょっと出かけて防寒グッズなどを買ってきた。

今年は節電の為に、ドアの隙間にテープを貼ったりして、すきま風が入ってこないようにしたりした。
今の所に引っ越して5年経つ。
今まですきま風を意識してこなかったが、意識し出すと、相当なすきま風が入ってきていたのに気づく(苦笑)。

あとズボン下タイツやネックウォーマー、手袋も買ってきて、通勤の防寒対策も完璧にした。
貼るカイロも買い込んだ。

今まで身体の冷えには相当無神経だったが、冷えは種々の病気の元になるようだ。
今まで多少の寒さは我慢してしまったが、今年は冷えにはなるべくエネルギーを惜しまず対策を講じたいと思う(笑)。

高次の存在ならば ― 2012年02月12日

今年は2012年で、スピリチュアルのみならず、いろんな機会に変化の年と言われているようだ。
まことしやかな人類滅亡説などのようなものもあるが、正直とんでもない誤解がいろんなところにはびこっている、という気がしないでも無い。

スピリチュアルなことを勉強していくと、僕らより高次の存在、例えば守護霊などや、もっとその上の高次の存在にしても、その位の位階に達すると、人類に対する破壊的な予言を敢えて僕らに伝えることをすることはないのではないか?、という気がしている。

一つには、そうすることで、人類がそうした否定的或いは限定的な念を抱いてしまうことを許すだろうか?というのがある。

僕らは、ある念を抱くことで、想念体とでも言うべきものを肉体の回りに構築するそうだ。
そしてその想念体が自分自身のみならず、回りの人間の人生にも影響していく。

そうした想念体の重要性を知っている高次の存在が、わざわざ破壊的な想念を僕らが抱くことを許すだろうか?。
そもそも僕らの自由を、そうした限定的な想念を抱くことに固定して束縛するだろうか?。

破壊的な予言を言う、ということは僕らに破壊的な念を抱かせ、まさにそうした破壊的な事象を引き寄せる。つまり破壊的な予言を言えば言うほど、それが起こるように願っているのと同じ事になる。
そんなことを高次の存在がするだろうか?。

では高次の存在が、もし緊急的に僕らの身に危険が迫っているとしたら、どうするか?。

これは僕の全く個人的な見解であるが、それは「僕らにわからないように導く」のではないか?と思う。
気がついたら知らぬ間に事故を回避していた、というようなことは一般的にも良くあることではないだろうか?。それこそが、まさに守護霊のしてくれた導きであった可能性は非常に高い。
気がついたら運良く助かった。とかいうことがあったら、まさに守護霊の助けだったと十分感謝すべきだと思う。

括りを捨てる ― 2012年02月19日

物事に感謝する、ということは、単に相手にお礼をする、ということだけでは無く、感謝の念を起こすことで、自分の波動を高めることでもある。

僕らはラッキーなことがあると、比較的容易に感謝の心は芽生えてくる。
しかしながらアンラッキーな出来事に対しては、感謝の念を呼び起こすのは強い抵抗があるものだ。

であるから、最初はラッキーなことが起こった時、回りの全てに対して感謝の念を捧げる習慣をつけておいた方が良い。

ところが、長い時間を経るとこんなことが思われてくる。
「あの時、ラッキーだと思って感謝したことが、結局今はアンラッキーに転じてしまったではないか?」
勿論、反対のこともある。
「あの時、アンラッキーだと思っていたことが、今考えてみると実はラッキーなことだったのではないか?」

「人間万事塞翁が馬」と言うが如く、幸運は不運の種と為り得るし、その逆も有り、不運は幸運の種と為り得る。

物事の背後には、その現象が幸か不幸かに関わらず、必ず我々の魂の学びとなるものがあるものだ。
であるから、ラッキーだろうがアンラッキーだろうが、全てに対して感謝できることが、最も望まれる態度であろう。

ただアンラッキーな出来事に対する強い抵抗感、嫌悪感を拭うのは難しい。

そもそもなぜアンラッキーに対して抵抗感、嫌悪感が沸いてくるのか?というと、それは我々が現実的な物事に埋没しすぎて、物事の背後の成長の種を意識できないから、ということがあろう。

それに気づくことができれば、あらゆる事象にラッキー・アンラッキーというレッテルを貼ること自体が、あまり意味の無いことのように思えてくる。

ラッキーかアンラッキーかという二元的な仕分けは、あくまでも我々物質世界次元での見方であり、それは時と共に移り変わっていくもので一時的なレッテルで終わってしまうことも多い。

その現象の背後にある魂の学びこそが大事なもので、それこそが我々の宝であり、スピリチュアル的な観点からすれば、ほとんど永遠に携えていけるもので、それこそが真の財産というべきものなのであろう。

それを考えれば、ラッキー・アンラッキーという括りは捨てて、全てのことに感謝すべきなのだ、ということが、いずれは必ず納得できるようになるだろう。

怒りへの誘惑 ― 2012年02月26日

感情を安定していく際に、やはり大きな関門は怒りの制御になるだろう。
僕も未だに、怒りの制御には苦労している。
感情の浄化とは怒りの制御ではないかと思うくらいである。

怒りを観察していくうちに、ある種の「誘惑」によって怒りが誘発されているのがあることがわかった。
「誘惑」というと色香やグルメなどの気持ちの良いものというイメージがあるが、怒りへと誘うものも多々ある。

すなわち直接的な怒り、例えば直接被害を受けたことなどに対する怒り、ではなく、たまたまその場の環境から入ってくる情報などが原因で、僕らの潜在的な怒りが触発されて出てくるケースである。

例えば一番わかりやすいのが、メディアから流れてくるニュースなどによってもたらされた怒りであろう。
ニュースの側には勿論悪気は無いだろうが、そのニュースのどこかしらに潜んでいる導火線が、僕らの怒りの爆弾に火をつけてしまうことが多々ある。

導火線の種類は人によって様々だ。
例えば何の毒も無さそうな行楽地のニュースでさえも、人によっては大いに導火線となることもあろう(笑)。

良く良く観察してみると、本当の怒りの原因は実は他にあるのである。
それが、こうした「誘惑」によってスイッチが入り、内在していた精神的問題が表面に露呈してくるのである。

感情を安定させる場合、こうした「怒りへの誘惑」から距離を置くのも一つの手だ。
気分が荒れている時、ニュースを見ない日を続けると、結構平和な状態がやってくるものだ。

ただ魂を強化するには、ある程度の「誘惑」に身を晒し、それを克服することも時には必要であろう。

「誘惑による怒り」は、怒りの原因に対する怒りでは無い。
強いて言うなら「本当の怒り」では無い。解決もできない。
であれば、怒ってもしょうがない。つまり意味が無い。
怒りは自分の回りの波動を破壊し、やがては環境も破壊する。
意味が無い怒り程、意味が無い(笑)。

しかし、それを克服していくと、その過程には非常に意味が出てくる。
例えばあるニュースに怒りを覚える。
ここで、まず、そもそもこのニュースのソースは信頼できるものなのだろうか?と考える。
もし、デマや一面的な情報しか伝えていないのであれば、デマに対して怒る必要があるのか?
という疑問が生じる。
そして仮に100%真実だったとして、ニュースの当事者の立場に、もし自分がなっていたら?と考える。その当事者と違うように振る舞えるのか?と自分に問うてみる。

こうした作業をしていくと、そこで当初の3〜4割は怒りが減じてくるだろう。

大事なのは、そのニュースの善し悪しでは無い。
つまり、この「真偽を疑う」とか「相手の立場になる」といったような、怒りを考察する上での精神的作業の過程こそが大事なのだ。
この過程を続けていくと、いつしか「ここでは怒っても意味がない」とか「この怒りは真っ当ではないな」とか「怒りの制御の芽生え」が生まれてくる。
こうした意識的なニュースの見方も、たまにはしてみてもいいかもしれない。