苦役がくれたもの【晴】 ― 2005年09月23日
社会人になってからの自分の人生を振返ってみると、”自分らしい生き方レベル0”を基準にすると、いつもマイナス領域を彷徨っていた感がある。
不本意な仕事という苦役に従事し、それが終わるとレベル0に戻り、ちょっと趣味の世界に没頭しプラスに行きかけたかな?と思うと、又すぐ苦役時代がやってきてマイナスになる。そしてそれが終わって0になって、又マイナス。これの繰り返し。低空飛行。
苦役時代の時間を、他に当てていたなら、どれだけいろんなことができたか、後悔は甚だしい。
このまま行くと、ちょっと変わり者の孤独なオッサン、で一生を終える、僕の人生一体なんだったろう?、の路線を辿るのは明白だ。
ただ、それもあまりにも癪なので、苦役で得たプラス面というものを考えてみた。
やはり第一に考えられるのは、スピリチュアルな世界に惹きつけられたことだろう。
調子がいい時は、自分の趣味のことなど割と実務的実利的な知識を吸収したく思え、あまりスピリチュアルなことには考えがいかないものだ。
ところが人生にプレッシャーが、かかればかかるほど、この現象世界以外で、現実の仕組みのシナリオが展開されているのでは無いか?、と考えたくなる故、スピリチュアルな知識を吸収しよう吸収しよう、という風に意識が働いていくのである。
まさに僕の中では、この精神世界の事柄というのは、苦渋の時代を経なければ感知し得なかった事柄に属するものだと思う。
これは苦難に出会うと宗教に走りたくなる心理と同じではある。
実際かくいう僕も、かつて宗教に走ったこともあった。
ただそれも、長い年月を経て思うに、何かに依存する体質の改善、真に宗教的であることと社会団体としてのコミュニティの場に参画することの違い、などを学ぶ過程として、更にはスピリチュアルな事象についての認識を深めたり、いろいろな人との出会いがあったりと、僕の人生においては必要なことであったような気はする。
じゃあ実際生活面でスピリチュアルになるということは、どういうことなのか?。
僕の経験で言わせてもらうと、それは難しいことでなく、いろんな物事に+αの意味を感ずる、ということになるだろうか。勿論これだけでは無いけれど、簡単に言うと、こんな風になるだろうか。
例えば音楽を聴いたりする時も、今まで歌詞がイイとかメロディがイイとかだけの側面を聴いていたのが、そこの何かのメッセージを感ずる、とか、この曲で勇気づけられた、とか、そういう聴き方をするようになることもスピリチュアルな意識の始まりであると思うのである。
今まで物質的な現象しか存在し得なかった局面に、あたかも第三者が介在しているかのように感じる瞬間、そういう瞬間を重ねていくことで、次第にスピリチュアルな意識は拡大していく。
それはすなわち、人間というのは、孤独などではあり得ないのだ、ということも語っているのである。
こないだ新聞に指揮者の岩城宏之氏の記事が載っていた。
大病の術後に、ふとモーツァルトのオペラの響きが心に降りて来た、というエピソードに続き、今度演奏するモーツァルトの最後の交響曲「ジュピター」に触れ、こう語っていた。
”最終楽章のフーガを演奏するたび、ああ、モーツァルトの人生はハ長調のフーガで終わるんだな、という感慨をもつ”と。
僕は、僕が思うのもおこがましいが、この記事を見て、岩城氏はモーツァルトの音楽にスピリチュアルなものを深く感じとっているな、と思った。
音楽に興味の無い方は、わからないかもしれぬが、この「ハ長調」「フーガ」というものの持つ、音楽を越えた深い意味合いを、やはりさすが日本を代表する指揮者である岩城氏は十分に感じ取られているのだろう。
逆に、音楽をスピリチュアルに聴く方は、皆、「ジュピター」について岩城氏と同じ感慨を持つのでは無いか?。
ちなみにビートルズの最後のシングルであり、屈指の名曲「Let it be」もハ長調である。
ハ長調というのは学校でも最初に習う、ドを基音とした易しい調性である。
しかし「Let it be」も「ジュピター」も、易しさと同時に、非常に深遠なものを語っている。
フーガというのは、単純な音形を、どんどん重ねて複雑な音楽を形成していく。
簡単であり、同時に深遠であるという、一見矛盾しているかのようにみえるものも、あるものを通して聴くと、全く矛盾は無い。
それは「愛」だと思う。
シンプルでありながら、奥深い、というのは、まさに「愛」の特性だ。
「Let it be」も「ジュピター」も、愛を通じて更なる未知の世界へと我々を導いていく、ビートルズとモーツァルトという二者の非常に偉大な音楽の魂がこの世に残したメッセージなのだろう(ポールマッカートニーはまだ生きてるけどね)。
たぶん、スピリチュアルな世界を知る、ことと、愛を知ること、はいずれどこかで繋がっているのだろう。
不本意な仕事という苦役に従事し、それが終わるとレベル0に戻り、ちょっと趣味の世界に没頭しプラスに行きかけたかな?と思うと、又すぐ苦役時代がやってきてマイナスになる。そしてそれが終わって0になって、又マイナス。これの繰り返し。低空飛行。
苦役時代の時間を、他に当てていたなら、どれだけいろんなことができたか、後悔は甚だしい。
このまま行くと、ちょっと変わり者の孤独なオッサン、で一生を終える、僕の人生一体なんだったろう?、の路線を辿るのは明白だ。
ただ、それもあまりにも癪なので、苦役で得たプラス面というものを考えてみた。
やはり第一に考えられるのは、スピリチュアルな世界に惹きつけられたことだろう。
調子がいい時は、自分の趣味のことなど割と実務的実利的な知識を吸収したく思え、あまりスピリチュアルなことには考えがいかないものだ。
ところが人生にプレッシャーが、かかればかかるほど、この現象世界以外で、現実の仕組みのシナリオが展開されているのでは無いか?、と考えたくなる故、スピリチュアルな知識を吸収しよう吸収しよう、という風に意識が働いていくのである。
まさに僕の中では、この精神世界の事柄というのは、苦渋の時代を経なければ感知し得なかった事柄に属するものだと思う。
これは苦難に出会うと宗教に走りたくなる心理と同じではある。
実際かくいう僕も、かつて宗教に走ったこともあった。
ただそれも、長い年月を経て思うに、何かに依存する体質の改善、真に宗教的であることと社会団体としてのコミュニティの場に参画することの違い、などを学ぶ過程として、更にはスピリチュアルな事象についての認識を深めたり、いろいろな人との出会いがあったりと、僕の人生においては必要なことであったような気はする。
じゃあ実際生活面でスピリチュアルになるということは、どういうことなのか?。
僕の経験で言わせてもらうと、それは難しいことでなく、いろんな物事に+αの意味を感ずる、ということになるだろうか。勿論これだけでは無いけれど、簡単に言うと、こんな風になるだろうか。
例えば音楽を聴いたりする時も、今まで歌詞がイイとかメロディがイイとかだけの側面を聴いていたのが、そこの何かのメッセージを感ずる、とか、この曲で勇気づけられた、とか、そういう聴き方をするようになることもスピリチュアルな意識の始まりであると思うのである。
今まで物質的な現象しか存在し得なかった局面に、あたかも第三者が介在しているかのように感じる瞬間、そういう瞬間を重ねていくことで、次第にスピリチュアルな意識は拡大していく。
それはすなわち、人間というのは、孤独などではあり得ないのだ、ということも語っているのである。
こないだ新聞に指揮者の岩城宏之氏の記事が載っていた。
大病の術後に、ふとモーツァルトのオペラの響きが心に降りて来た、というエピソードに続き、今度演奏するモーツァルトの最後の交響曲「ジュピター」に触れ、こう語っていた。
”最終楽章のフーガを演奏するたび、ああ、モーツァルトの人生はハ長調のフーガで終わるんだな、という感慨をもつ”と。
僕は、僕が思うのもおこがましいが、この記事を見て、岩城氏はモーツァルトの音楽にスピリチュアルなものを深く感じとっているな、と思った。
音楽に興味の無い方は、わからないかもしれぬが、この「ハ長調」「フーガ」というものの持つ、音楽を越えた深い意味合いを、やはりさすが日本を代表する指揮者である岩城氏は十分に感じ取られているのだろう。
逆に、音楽をスピリチュアルに聴く方は、皆、「ジュピター」について岩城氏と同じ感慨を持つのでは無いか?。
ちなみにビートルズの最後のシングルであり、屈指の名曲「Let it be」もハ長調である。
ハ長調というのは学校でも最初に習う、ドを基音とした易しい調性である。
しかし「Let it be」も「ジュピター」も、易しさと同時に、非常に深遠なものを語っている。
フーガというのは、単純な音形を、どんどん重ねて複雑な音楽を形成していく。
簡単であり、同時に深遠であるという、一見矛盾しているかのようにみえるものも、あるものを通して聴くと、全く矛盾は無い。
それは「愛」だと思う。
シンプルでありながら、奥深い、というのは、まさに「愛」の特性だ。
「Let it be」も「ジュピター」も、愛を通じて更なる未知の世界へと我々を導いていく、ビートルズとモーツァルトという二者の非常に偉大な音楽の魂がこの世に残したメッセージなのだろう(ポールマッカートニーはまだ生きてるけどね)。
たぶん、スピリチュアルな世界を知る、ことと、愛を知ること、はいずれどこかで繋がっているのだろう。
最近のコメント