根拠のない信念2010年11月23日

 今年もあと少しで12月だ。
 今年は占星術上では様々な変化が顕現する年だったらしい。
 僕自身は、そう大きな変化はふりかからないと思ってたのであるが、秋分の日近辺に、運命のアタックとでもいうような出来事が立て続けにボディブローのようにわき起こって、ちょっと身辺が慌ただしくなってしまったことがあった。

 ここ数年人並みの小さな幸せに安住して暮らしており、それで何が悪いのか?というくらいであったが宇宙は、やはりそう簡単に幸せにはさせてくれないようであった(笑)。

 アタックの主たるものは経済的なもので、幸いその内の幾つかは、打撃ではあったけれど、未来への希望的要素も内在してはあり、又あるものは自分の早合点だったことも後から判明したりして、今は少し落ち着いた状態に戻った。
 経済的な問題は、どうも僕の人生の節目節目で出てきて、これは僕のみならず、僕の家系も抱えている、ある意味核となるテーマらしい。

 まあ、そんなように、いろいろなことがあって、というわけでは無いが、ここ最近自分の中での意識に又大きな変化が起きている。
 というか、変化せざるを得ないように追い込まれたともいうべきか。
 ここ1年くらいは、意識的な大きな変化が、かなりの勢いで奔流のように押し寄せており、それが実生活に反映し始めただけなのかもしれない。

 意識の変化は沢山あるが、例えば極最近の変化を例にあげると、「信念を持つときに、根拠の無い信念を持つように」心がけるようになった。
 これは「頭のいい人が「脳のために」に毎日していること」(トッドカシュダン著。茂木健一郎訳:三笠書房)という本を読んだ際に、そのことに言及されており、それでハッと目覚めたのである。

 本の論調は、脳の為にイイこととは、脳に好奇心を持たせドキドキワクワクさせることが良い、ということだとし、その好奇心を持たせる際には「信念」が無くてはならないとした上で次のように書かれていた。

『「何が起こっても大丈夫」という「根拠の無い信念」こそが「実際にどれだけデキルか」ということより、大切だということなのです』と。

 「信念」というのは大切だ、とは良く言われる。
 いろいろな局面、困難な局面でもそれを乗り越えられたのは「信念」があったからだ、などいうことも良く聞く。
 忍耐強く、自分を信じ、他人を信じ、夢や希望を信じること、それこそが物事を貫徹する大事な要素、だという。
 このことは頭では、確かにすごく良くわかる。
 自分の夢や希望を実現するためには、様々な局面で信念がないと乗り越えられないと思う。

 しかし困ったことに、僕らは「信念」を持とうとする時に、「根拠のある信念」を持ちたがる。
 これもある意味致し方の無いことではあると思う。
 要するに「根拠のある信念」でないと不安になってしまうからだ。
 「こうこうこうした理論的裏付けがあるから大丈夫」「こうした経歴や実績のある人だから大丈夫」などと、いろんな「根拠のある信念」を持った上で、やっと行動を起こそうとしたりする。
 ややもすれば「根拠のある信念」が無いと行動できない。

 ところが、この「根拠のある信念」が何らかの事情で崩れたりすると、それをキッカケに瞬く間に全てが崩壊に至ってしまうことがある。
 「根拠のある信念」に依存してしまった結果である。
 外的な事情というのは、いろんな要素で様々に変化していくものだ。
 だから「信念」の「根拠」を、外的な要素に求めようとすると、時として、こうした崩壊に見舞われてしまう時がある。
 今年の僕が、まさにそうだった(笑)。

 物事を成し遂げるのに大切なのは、まず物事を貫徹する為の自分のエネルギーで、それは本来外部の要素に影響を受けるモノでは無く、あくまでも、自分の心、意志が発するモノであれば十分で、そうあるべきものなのだと思う。
 それを上記著書は、気づかせてくれたのである。

 今までを振り返って見ても、何かを成し遂げた時というのは「何かわからないけど、とにかく大丈夫」という変な自信、まさに「根拠の無い信念」に後押しされていたように思う。
 「根拠の無い信念」というのは言い回しは、いかにもいい加減な感じであるが、外部的なモノに影響を受けないだけ、実は「根拠のある信念」よりも、はるかに頑強で確かなものでは無いのかと思う。
 実は「信念」というものは「根拠の無いこと」の方が本当で、「根拠のある信念」は信念とはいわず、それは「経験則」というのではないか。

 僕は今まで何かをしようとする時に「根拠のある信念」を持とうと四苦八苦していたが、「信念に根拠はいらねえんだ!」と思っただけで、すごく肩の荷が降りた(笑)。
 「信念」は根拠が無いからこそ「信念」であり、そうであるから持つべきであり、そうできることが非常に大きな一歩となると思う。