熊谷に通ってみて2012年09月02日

8月の最終週より職場移転により埼玉の熊谷に勤務することになった。
8月最終週は準備週という感じで、いよいよ9月より本格化という感じだ。

僕個人的に今まで8月に仕事面においての重要な変化が起こるパターンが多かった気がする。
こうした変化は一般的に3月に起こりやすいが、比較的8月というのも結構変化が多いのではないかと思う。

一週間熊谷に通って、気づいたことは、結構遠距離通勤をしている人が多い、ということだ。
僕は王子から京浜東北~、更に赤羽から高崎線というように、北上する形になり、最初都心と反対方向に行く電車なので、しかも朝早い時間だからガラガラなのかと思っていた。
とんでもない。
大宮からは結構混むし、上野や赤羽から僕が降りる籠原より先に乗っていく人も大勢いる。

月曜からは学校も始まるので更なる込み具合の加速があるのだろう。

自分のことは棚に上げるが、”みんな結構頑張ってますなあ”と、何かと学ばされた一週間であった。

畏敬2012年09月09日

シュタイナーの著書で、我々が例えば所謂天国などと認識しているような霊界などの高次の世界へと繋がる方法を示した「いかにして高次の世界を認識するか」には、まず最初は高次の世界に対して「畏敬」の感情を養うことが必要だ、ということが書かれている。

しかし我々が認識できない世界に対して「畏敬」の念を抱くことができるのだろうか?。

そもそも地上に生きる周りの人間に対して「畏敬」できないものが、高次の世界の存在を「畏敬」できるのだろうか?。

普段地上にいる人間を軽蔑ばかりしているような人間が、急に高次の世界の存在を「畏敬」できるのだろうか?。

・・・と、こんな疑問がふつふつと湧いてきて、僕は「オレは高次の世界は認識できねえな、ハハハ」などと思ってきた(笑)。

ところが、最近少しづつだが考え方が変わってきた。

自分が普段見かける人間が、だらしなかったり悪を犯すような人間であれば、自ずと軽蔑の念が湧いてくる。

カルマの法則を意識していれば、こうした悪や人に迷惑をかける行為は、いずれ自らに降りかかってくることがわかるので、もう自ら悪を行おうとは思わなくなると思う。

「なぜこの人達は、災難が自分に降りかかってくるような馬鹿げたことをするのだろう?。哀れな人達だ。」

そんなネガティブな考えが湧いてくる。

しかし最近こんな考えもするようになった。

「この人達には、いずれ災難が降りかかってくるだろう。だが、今この人達は、ある意味身を挺して僕に教訓を授けるべく、反面教師的な役周りを引き受けていてくれる。
勿論いずれ自らも学ぶのだろう。もしかしたら本当に、そういう役目を背負って、今僕の前に現れてきてくれたのかもしれない。今現時点で、こうした反面教師的な役を、僕の前で演じてくれる為に、わざわざタイミングを選んできてくれたのかもしれない。つまり、今悪人であるのは、僕にこのタイミングで会う為にわざわざ調節してくれたのかもしれない。」

・・・というような考えである。

もしも、こうした考えが、本当だったとしたら・・・、そのシナリオ、登場する役者、全てが驚異のシステムだ。

・・・、と、こう考えると、身近の、だらしない人間が、急に「畏敬」すべき人間ではないか?、と思えるようになってきた。

勿論いますぐ畏敬・絶賛・賞賛の嵐・・・というのにはならないし、相変わらず軽蔑の念は強い(笑)。

だが、僕の中で、少しだけ上昇的な考えが芽生え始めたのは今のところ確かなことではある。

二つの方向の間で2012年09月17日

2011.3.11の東日本大震災から、約1年半が経った。
振り返ってみると、あの大震災によって、非常に特徴的な、しかも対極的な2つのパワーというかプレッシャーが我々にあることが明らかになった、と感じている。

一つは我々を非常にエゴイスティックにするもの。
もう一つは逆に、極端に受動的にしてしまうもの。

両パワー共に、本来の力はネガティブではないのだろう。
しかし震災というショックによって、それが極端に強いプレッシャーがかかると、ネガティブになりバランスをくずしてしまう。

エゴイスティックになると、我先に、という自己主張が強くなる。自分の権利に必要以上に固執したくなる。
その逆になると、謙虚にすぎて、重要な決定すらも他者に、その判断を委ねてしまい、間違った選択をしてしまう。詐欺などに騙されやすくなってしまう。

どちらの場合も、根底には恐怖というのがある。

これは震災という特別な状況に限らず、普段の生活のいろんな局面で、そのパワーがバランスを失った時に出てきてしまう人間の特性ではないだろうか。
普段はショックが比較的小さいため、表面には出てこないで気づきにくいのだろう。

ただ、これらのパワーは悪いものだからと言って、無くしてしまうことはできないのだろう。
なぜならこれこそが生存へのパワーに他ならないからだ。
ネガティブになってしまうのは、どちらかの方向に行き過ぎて、そのバランスを欠いてしまい、極端になり過ぎてしまうからだろう。
どちらに行くか偏るかは、その人の性格にもよるのだろう。

つまり我々は常に、この二つの方向の間で、バランスを取るように求められているのかもしれない。
時には自己主張をし、時には流れに任せ、その時々で適切な判断を下せるように、このパワーは我々を促しているのだろう。

ところで、おそらく「近いうち」に、又日本の政治状況も変わる様相を呈してきた。
今大手マスコミ等は、様々な情報操作をしているようだが、我々はそれに惑わされず、与えられた時間で的確な情報を入手し適切な選択をしたいものだ。

マスコミ受けするようなグループも、良く政策を調べてみると、既得権側だったり、従来の路線に逆戻りだったり、おかしな点が沢山出てきてしまうものだ。
であるから良く政策も吟味しない内に、見た目や雰囲気や、その場の乗り、マスコミの情報操作などで、政治家を安易に選んでしまうという愚は、少なくとも今回からは是非とも避けたいものだ。

久しぶりの腰痛に2012年09月23日

僕は8月の下旬から職場が移転し、埼玉の熊谷勤務になった。
熊谷に通い始めてから程なく、右手の中指を鉄塔に強く打ち付け打撲。
そして先週、しばらく鳴りを潜めていた腰痛が、急に発生。

ここのところ芸能人などがケガをしたりするニュースを聞くことがある。
それと乗りを同じくしたわけではないが急な体の異変に、先週は、かなりブルーな日々が続いた(笑)。

打撲の方は時間の経過と共に次第に収まってきた。
腰痛も、ストレッチ(仰向けに寝て足を伸ばして開いたり閉じたり、足を曲げて開いたり閉じたり)や、「腰痛は怒りである(長谷川 淳史: 春秋社)」に書かれているような「無意識の怒りの意識化」をして、現在は痛みも治まった。

熊谷通勤を始めて、通勤時間が今までの30分から二時間弱になった。

電車では、行きは座れることが少ないが、帰りの電車はまず100%座れる。
そうしたちょっとでもあるメリットを見つけて、この熊谷通勤をいわゆる心理学的に言う認知的な方法で、ポジティブなものとして捉えていこう、と健気に頑張っていた僕(笑)。
しかし、急な遠距離通勤へのシフトは精神的には受け入れられても、肉体は知らぬ間に悲鳴を上げていたようだ(笑)。

人生には大なり小なり様々な負荷がかかるものだ。
そうした負荷をポジティブに捉えることで大きな成長がある。
しかし、そうした負荷のみで成長していこうとすると、いつしか人間としての喜びを忘れていってしまうものだ。
人生の暗黒面のみで成長を行い続け、人生の光の面を無視していくと、どうなるか?。
病気・怪我になってしまう。
今回の僕の腰痛や打撲は、まさにその良い一例だろう。

人間には魂の成長と共に、神の意志を体現する、という大きな使命を担っているそうだ。
神の意志とは愛の体現であり、それは生きる喜びでもあるだろう。

人生の負荷による成長も勿論大事だし、人生に喜びを見出すことも勿論大事だ。
そこでもやはり、そのバランスを取ることの大切さがわかる。

僕は、ちょっと最近人生のダークサイドに焦点を当て過ぎ、ブライトサイドを見ることを忘れていたようだ。

新鮮でもあり懐かしくもあり2012年09月30日

8月下旬から、有楽町から埼玉の熊谷に勤務地が変更になった。

通勤には京浜東北線と高崎線を使用している。
熊谷という場所で働くことは勿論僕にとっては初めての経験である。
だから、新しい生活が始まって、確かに新鮮な気分ではある。

ただ高崎線を使用する通勤は、僕にとっては実はちょっと懐かしい事態でもあった。

今から26年ほど前、1年だけ埼玉の大宮に住んだことがあった。
その時塾の講師のアルバイトをしていて、週2回は埼玉の上尾、週1で埼玉の春日部に通っていた。

つまり26年前大宮から上尾まで、高崎線を使って通っていた、ということである。

今は行きの電車は座れることが少ないが、帰りは始発に乗れば、間違いなく座れる。
前の方の車両がボックス型のシートのある車両で、いつも空いているので、そこに座ってのんびりと帰ってくる。
まあ、ちょっとした旅行気分である(笑)。

のんびり音楽を聴きながら上尾を通過すると、いつもちょっと懐かしい感じが蘇ってくる。
あの頃と駅の感じや駅前の感じは変わっていないようだ。
ただあの頃務めていた塾は、もう無いようだ。

新しい場所へ行っているのに、懐かしさも入ってくる、そんなちょっと複雑な最近の心境である