危機的状況?2012年10月07日

8月下旬から、有楽町から埼玉の熊谷に勤務地が変更になった。

通勤が以前より大変になったが、まあそれは慣れの問題でもあるだろうと、思っている。

実はもっと僕にとってはストレスフルな事態が発生している。
それは「相対的オッサン人口の激増」である(笑)。

職場では元々女性は少なく、我がチームにいた、既婚ではあるが二人の女性もいなくなり、一人いた部内の庶務の女性もいなくなった。
庶務の女性は、その内現地の女性がくる予定ではあるが、今は部内が男子校の様相を呈している(笑)。
既婚の男性は全然問題無いと思うが、僕のように50を目前にした未婚男性では、職場でも何かしらの目の保養があればあるほど良い。
東京時代は他の部署の活きの良い女性陣で目の保養もできたが、今やそれも無い。他の部署は見えない(笑)。

職場だけでなく更に、下りの朝の高崎線も、こんなにオッサンが多いとは誤算だった(笑)。
さすがに下りなので、満員電車になっていないのが、せめても救いだ。
これが満員電車だったら、と思うと戦慄である。まさに地獄絵図だっただろう(笑)。

ちなみに通勤の満員ラッシュの悲惨さは良く言われるが、世の男性は、なぜこの満員電車に耐えているか?というと、一つ大きな理由があると思う。
ある意味タブー気味な意見ではあるが、それは、”女性と密着できるから”というのがあると思う。
たぶん世の男性は大きな声でいえないがこれを思っている輩は、かなり多いはずだ(笑)。

つまり逆に言うと、満員電車の何がストレスフルなのか?、というと僕は「オッサンとの密着」につきると思う(笑)。
正直申し訳ないが、たまに存在自体がストレスフルなオッサンも見かける(笑)。
こんなオッサンに奥さんがいて、いつも毎日同じ家で暮らさなくてはいけない、と思うと、その絶望的な状況に奥さんに同情する。
完全に自分がオッサンなのを棚に上げてしまって申し訳ないが(笑)。


・・・少し話がそれた。
話を戻すが、僕の場合、高崎線の帰りの電車は空いているので、ストレスフルでは無いが、1車両全部男だけ、というのもちょくちょくあるのが腹立たしい(笑)。

このように、通勤時も職場でも、今の僕の生活は「あれ?日本って女性の人口の方が多いんじゃなかったっけ?」と統計的事実を疑いたくなるような異常な男女比である(笑)。
異常な男女比に向き合わなければならない事態、というのは確かに人生において何かしらの意味はあるはずだ。
しかし今は「なぜオッサンにこれだけ囲まれるか?の霊的な意義」という萎えるような命題を考える気力は湧いてこない(笑)。

個人的には以前も女性の少ない職場というのは結構あった。
そんな時は一昔前の景気が良い時なら、お金を使って「お金で女性との接触機会を買う」というような哀しい技を駆使して、こうした事態に対処してきたので殊更男女比を問題にすることもなかった(笑)。
しかし今や、その経済力は無い。
まさに危機的状況である(笑)。

これによって女性に対するハードルがググッと下がり、女性を見る目にも曇りがかかってきはじめている、というある意味これも危機的と言える状況が発生しつつ無いでも無い(笑)。
最近では富士そばの店員の、かなり熟女なオバちゃんに対しても、女性として意識し始める、という傾向がチラホラと見え始めているとか、いないとか(笑)。

僕はこの異常事態は、単にバイオリズムの問題で、時間がその内解決してくれると思っている。きっとそうだ。そうに違いない(笑)。
決して今までのバチが当たったからでは無いはずだ(笑)。

でもちょっと不安になったので、少しだけ過去を振り返って検証してみようとは思っている(笑)。

混迷期2012年10月14日

次回の総選挙がいつになるかが注目であるが、なかなか解散先送りで、事態は停滞・混乱しているようだ。

知らない内に妙な法律が決まったり、せっかくの復興費用なども、違う用途に使用されているらしく、どうも悪の勢力(笑)にやりたい放題されているようなので、もうこの悪い流れに、どこかで歯止めをかけないと、と多くの国民が思っているだろう。

ただ、だからといって我々も、こうすべき、という決定的な選択肢を決めあぐんでいる。
自公はもれなく原発推進なので、この選択肢は初めから無い(笑)。
これだけ詐欺まがいのことをされているので、もう民主党という選択も無い(笑)。

維新は、どうも小泉政権時代への逆戻りとの噂があるので、これもまず無い(笑)。

あとは残りから、ということになるが、いずれにしても棄権すれば上記が相対的に出てきてしまうので、やむなく「消去法」という手法になってくることだけは間違いない(笑)。

個人的には、やるなら早く解散してほしい、とは思っている(笑)。

急転2012年10月19日

今日は仕事が休みだったので、遅めに起きた後、洗濯や雑用を済ませて、3時くらいに買い出しがてら自転車で外出した。
快晴で行楽日和であった。

普段見慣れている景色でも、平日の昼間だと全然感じが違うもんだ。

違和感、というほどでも無いが、異邦人感はかなりある(笑)。
自転車で走っていると、更にその感は増して、何か街が映画の中の風景のように、自分がいつも感じている世界とは別の世界が流れているように感じる。

話は変わるが、8月下旬から、有楽町から埼玉の熊谷に勤務地が変更になり二か月程経った。

ところが事態が急転し、再び有楽町に戻ることになった。

東京に戻ること自体はメリットも多いのであるが、先行きの見えない展開に戸惑いもあることも確かだ。
熊谷には今後戻るかもしれないし、契約が終了してしまえば戻ることも無い。

まあ「人間万事塞翁が馬」という言葉もあるように、ある事態の吉凶をとやかく言って慌てること無きよう、何があっても悠然とするのみである。

熊谷時代は今のところ二か月程続いたわけであるが、自分にとってどんな意義があったのか?、寝る時に考えてみようと思ってる。

善悪のイメージ2012年10月21日

「善と悪」、というと大抵は「善は+(プラス)で、悪は-(マイナス)」というイメージを抱いているだろう。

だが良く分析していくと、悪にも「+と-」があったりすることがわかる。
これが悪のややこしさでもある。

あるAという悪があり、その対極の意味合いを持つBを、善だと思ったら、実はBも悪だった、などということが悪の世界にはままあり得る。

ちなみに僕の好きな、ルドルフシュタイナーの本でも、「ルシファー」「アーリマン」という対極的な霊的悪の存在について言及しているのを良く見かける。


では善には「+と-」があるのだろうか?。

僕は無いと思っている。

なぜなら、善に進化していくほど、物事は統合され一元化していくので、善になることで、「+と-」という次元自体を超越し一つになる、と思っている。

従って、悪ほど分裂しやすく、それゆえややこしくわかりにくい、とも言えるだろう。
善悪で分けられない複雑な物事をよくよく分析してみると、トーナメント方式の勝敗表のようになったりするかもしれない(笑)。

ある善的意見の逆が明らかに悪、という場合も勿論数多くあるだろう。例えば「窃盗はいけない」というような意見の逆は悪であろう。

ただ物事が複雑化した時に、ある悪的意見の逆が善と考えるよりは、その二つの意見を、難しい言葉で言うと「止揚(しよう)(二つの矛盾する概念を一段高い次元で統一すること)」したところにある意見の方が善に近い、ということも十分あり得るだろう。

物事が混乱した時は、白黒で判断するので無く、止揚して考える、という手法も取り入れていくといいかもしれない。

人間万事塞翁が馬2012年10月28日

「人間万事塞翁が馬(世の吉凶禍福は転変常なく、何が幸で何が不幸か予測しがたいことをいう。:広辞苑)」という、ことわざがあり、僕の好きな言葉でもある。

ここには非常に大事な意味も含まれていると思う。

それは、「吉凶の判断を安易にしないことが大切」ということを示唆しているということだ。

これは精神上非常に重要なことだ。

ブッダが悟りに至る道として説いた八正道というのがある。
それには、正しく見たり、正しく考え、正しく判断したり・・・、といったことが説かれている。
「人間万事塞翁が馬」という言葉を意識することによって、この八正道にも通じていくものがあるのではないか?と思っている。
吉凶禍福に惑わされることなく、物事を冷静に正しく見つめる目を養うことができるのではないだろうか。

つまり「人間万事塞翁が馬」ということわざは、実は悟りに至る初めの道となり得る、ということではないだろうか。