離せない恋【晴】2005年10月02日

 先週9月中に国勢調査の調査員が来たので、来週平日家にいないから今週調査表取りに来いと軽率に言ってしまった。
 あれ9月に回収しちゃダメなんだな。気づかなかった。

 それはそれとして、最近冬ソナのサントラばっか聴いてる。
 「My Memory」はお気に入り。
 あとソンという女性が歌ってる「離せない恋」というのもイイ。泣ける。
 もしかしたら、あれドラマ見なくても音楽だけでも結構聴く価値あるかもな。

message to me 【晴後曇】2005年10月03日

 ここ何日か「今を生きる」という言葉が僕の生活のキーワードになっている。
 しかしながら僕自身「今を生きる」ということは、実際どういうことなのか?、どうすればいいのか?はハッキリ理解はしていないと思う。

 ただ救いを求めて、ネットのとあるサイトを見たり、本屋に行ってたまたま本を開いたり、以前読んだ本を開いたりした、そのページに「今を生きる」という意味のことが書かれていた、ということが、この何日かで立て続けに5回くらいはあった。

 つまりは、これは今の混迷を打破するキーワードが「今を生きる」なのだ、そうとってイイと感じた。
 「今を生きる」ということを実感し、それを理解せよ、そういうマイロード、マイマスターからのメッセージなのだ、そう受け取った。
 そこまではわかった。
 さて、では・・・。

次はどうすればいいのか?【曇】2005年10月08日

 今日はグッスリ寝た。
 ここ一ヶ月ほど、こういう感覚が無かったので、起きた後は、自分に戻ったような、何かに取り憑かれていた憑き物がおちたような、何か”今までの自分は何だったんだろう?”みたいな奇妙な感覚に襲われた。

 金を稼ぐ為だけの仕事は、どうも精神的にシンドくなりがちだ。それも時間を費やしプライベート時間まで脅かされると完全に精神のバランスを失う。

 こういう生活でも確かに得るものは大きい。いろんな経験を積み修行にはなったと思う。

 ただ最近思うことは、こうして学び、得るものを1とすると、同時に、その数倍の10位の怒りと絶望が、自分の魂に毎日刻印されているような気がしてならない。
 感謝や愛も学ぶけれど、その経過経過で、それを遥かに上まわる怒りと絶望が刻印される。
 僕の場合具体的に言うと、現在あるようなビジネス社会からは、恩恵を受けたり修行させてもらって有り難いと思っており、その存在は認めるけど、自分が長だったら、こんな社会は絶対に作らない、といったような潜在意識に、ある種の嫌悪感、すなわち怒りが刻印されるのである。
 更には自分の未熟な部分を矯正する為には、まだまだここに留まり続けなければいけない、この生活からは逃れてはいけないという思い込みと絶望感が日々刻印されていくのである。
 果たしてこれは、本当に自分の魂が望んでいることなのか?、進むべき方向なのか?、かなりの疑念が生じて来た。

 僕らの魂は、世界と、そして地球と繋がっている、と言う。
 もしかしたら、僕は地球に大変なダメージを与え続けているのでは無いか?、そう思えて来た。

 ここからはあくまでも僕個人の推測であるが、人間自分自身が怒りと絶望を、うまく解放・消化もしくは昇華し切れないと、どうなるか?、その行き着く先は、破壊的な解放の方向、すなわち、死や病気だと思う。
 更にもし、もう人間自身で怒りや絶望がコントロールできなくなってしまった場合、人間はその解放を地球に委ねてしまうのでは無いか?。それが自然災害を引き起こすのでは無いか?。

 これは被災地の方々には大変申し訳無く、語弊のある考え方だと思うのだが、敢えて述べると、自然災害が一見どうみても、この人達に降り懸かるのはあまりにも酷では無いかと思えるような不遇な地域に発生することが多々ある。
 これはその地域の人々の魂の状況と無縁だとは、どうしても思えないのである。つまりそこには災害が起こる前から怒りと絶望があるのではないか?。

 こう考えると、今いろんなとこで言われているように将来地球がもし危機的状況になってしまうとしたら、その原因は、我々自身の怒りと絶望にあるのでは無いか?、そう思えたのである。
 ここまでわかったらば、もう地球を救う道は明らかである。
 我々から怒りと絶望を無くせばいいのである。

 我々自身が抱えている怒りや絶望、すなわちダークサイドと向き合い、それを解放・昇華していくのが先決なのでは無いか?。
 自分自身のあるべき姿を認識し、それに沿った生き方をして再び希望が取り戻せるよう、苦役を何度も何度も繰り返さなくていいような生き方をしなければいけないのでは無いか?、そう痛感している。

 ただねえ・・・、そうわかったのはイイが、今度はそれをどうすれば実現できるのか?、それが全然ワカンネエんですけどね・・・。

夢の映像【曇時々雨】2005年10月09日

 アメリカのプロバスケットNBAで大変貴重なDVDが発売された。
 「ヒストリーオヴ・ボストン・セルティックス」「ヒストリーオヴ・ロサンゼルス・レイカーズ」という2セットのDVDボックスである。
 予約しておいたのが届いた。最近では思い切って奮発してしまった買い物であった。
 最近ろくなことがなかったので、届いた時は思わず宅急便のオニイチャンに、アリガトウッ!と叫んでしまったくらいだ。ニイチャンたぶんなんでそんなに有り難がられるかワカンネかっただったろうな。

 このDVDの貴重なところは、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、カリーム・アブドゥル・ジャバーといった伝説のスーパースター達の全盛期のゲームが、当時のアメリカでTV放映された映像でフルタイム収録されていることだ。
 NBAを知らない人の為に例えておくと、日本のお笑いなら「8時だよ全員集合!」のDVDが出たくらいの価値だ。
 マジックやバードは、バルセロナオリンピックのドリームチームのメンバーだったし、ファンには、それこそまさに夢のような映像だ。

 そう言えば「スターウォーズ・エピソード3」のDVDも11月23日発売が決まって、予約した。

 この連休天気が芳しくなく憂鬱ながらも、ちょっと希望が出て来た今日この頃でした。

現実は何も無い【雨】2005年10月10日

 誰しも小さい頃良く遊んだ場所があるだろう。
 僕だったら近くの寺院や神社で隠れんぼや鬼ごっこをして遊んだもんだ。
 紙芝居のオジサンが来ていた公園などもあった。
 今は街が変わってしまって、僕の記憶の中にしか無い場所もある。

 そうして遊んだ小さい頃のキラメクような想いを自分の印象に忠実に表現するのは難しいかもしれない。
 自分の想いは自分にしかわからず、それは永遠に自分の中に生きているだけであり、例え表現したとしても、思ったものとは別なものになっているのかもしれない。でもそれはそれで良いのであろう。

 ある一人のミュージシャンは、少年の頃親しんだ場所を題材に曲を作った。
 そこは全てが夢のような幻想的な空間であり、彼の中では永遠に生きている場所であった。
 そこにある「彼の木」には誰も登ってこれない。その木は高いか低いかだけで、誰も彼を理解できないだろう、と歌う。

 このイギリスのリヴァプールにある救世軍の孤児院のいちご畑を歌った、少々難解にも聞こえる歌は、当時彼の属していたロックバンドの作風とは一線を画すもので、ファンの中には、そのサウンドに面食らったものもいたようだ。事実今まで出す曲出す曲、全てチャートの1位に輝いていたのが、この曲は2位止まりという不名誉な記録を作ってしまう。
 しかしながら、やがてこの曲は、このバンドの最高傑作の一つとも称されるような楽曲となった。

 「Strawberry Fields Forever」と銘打たれたこの楽曲は、ビートルズのサウンドが飛躍を遂げた転換期を象徴する曲として非常に重要な位置を占めている。ビートルズの音楽的革命が、まさにビックバンのようにはじけたような楽曲だ。

 僕自身、自分の小さい頃の想い出を何かに表現するには、どういう手法を取ったらいいんだろう?と時々空想してみることがある。
 この「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」という曲は、ジョン・レノンの一つの模範解答である。
 それにしてもこのモチーフ、何というイメージの広がり方なのだろう。少年時代を題材にと言った時、ジョンがやると、こうなるんだ・・・、。
 この曲を聴くたびに、僕はまだまだジョンの木には至ることはできねえな、と思うのである。
(勿論、昨日のジョンの生誕65年に因んでね)。

イヴァンのDVD【曇】2005年10月11日

 ブラジルのミュージシャン、イヴァン・リンスのDVD「CANTANDO HISTORIAS」を入手した。
 冒頭の「Abre Alas」の刺激的な電子ピアノのイントロから、もう既に引き込まれてしまった。
 イヴァン・リンスは、特別に歌が上手いというわけでは無い。
 でもその音楽は完全に音楽の神MUSEに魅入られているという感じだ。

 僕の好きなミュージシャンを映像やライブで見ていると、まず自分をMUSEの波長に合わせ、その波長に合わせると、後は体の中から音楽が自然と、ほとばしり出てくる、そんなように見える。
 スターウォーズ風に言うと、ジェダイがフォースに意志を合わせると勝手にライトセーバーが動く、そんな感じだ。
 イヴァン・リンスは、それで言えば、かなりのForce-Musicaの使い手のようだ。

 ああ、オレもフォースの使い手になりてえなあ。
 エロフォースなら、多少使えなくもなさそうだがな。
 ん?、キモイ?。
 ですよねえ。

打破すべき価値観?【晴】2005年10月12日

 これからの新しい時代、今までの思い込みを打ち崩し、ドンドン価値観を変えていかなければ人間としての進化は無いだろう。
 僕も、自分の思い込みをドンドン壊していきたい。

 まず手始めに自分は「モテナイ」という思い込みを打破していきたい。
 要するに僕は「モテル」と思っていきたい。ドンドン。できればかなり激しく狂おしいまでに「モテル」と思っていきたい。

 何も僕は全然根拠が無い状態において空元気で、こう宣言しているわけじゃないからね。
 ちゃんと今日は僕が実はモテル、モテテイル、と確信するに至った一事があった次第なのだ。

 ん?、どうせオマエのことだから電車の中でオネエチャンのオッパイに当たったとか、そういった類いの話だろうって?。

 なぜ、わかった〜っ?!。

 ま、いいや。とりあえず日記には書いておくけど。

 電車で僕の横に女子高生のオネエチャン2人が立っていた。
 だんだん電車が混んできて、僕はオネエチャンサンドイッチ状態になった。
 僕を挟んでオネエチャン二人は喋くっているのだが、電車が揺れるたびに、前のオネエチャンのオッパイがムニョムニョと当たるまでに至った。
 オネエチャン達は、揺れて体勢が崩れる度に、キャーキャー言ってはしゃいでいる。

 どう見ても、とっても楽しそうなのである。
 僕にオッパイが当たって、不愉快になっているとは、とても思えないのである。

 これは、僕に対して「オッパイ接触の無言の許可」が降りた、すなわち、もう僕は既にモテテイル、と解釈して、どこがいけないのだろうか?。
 「オッパイ接触」=「モテル」という短絡解釈については、確かに反論もあろう。
 確かに「オッパイ接触」したからと言って、必ずしも「モテル」とは限らない。
 でも逆から言うと「モテル」ならば、必ず「オッパイ接触は当然許可」ということになりゃせんか?。
 だから、この際、逆が真だったらイイのっ!。モテたことにするのっ!(逆ギレし始めたゾ・・・)。

 ただし僕をやや不安にさせる論点も無いことも無い。
 すなわち、それはかくなる恐ろしき図式で表される。
 「オッパイ接触許可」=「オネエチャン気づいていない」=「僕は眼中に無い」。
 こっちだったら、どーする?。
 全くあり得ないこたあ無いな。
 ま、有りっちゃあ〜、有りかもな。

 結局僕の新時代の新価値観「モテル」は、未だ不確実性100%のようですね。
 そーですねっ!。
 今日は戸部でーす、よろしくお願いしまーす。
 今日のゲストは、えっ?!、11年ぶりっー?、紺野美沙子ちゃんでーす。

 ん?、いいともごっこは関係無い?、それがやりたかっただけだろって?。
 そーですねっ。

蚊ってヤツは・・・【晴】2005年10月14日

 血を吸いに来た蚊は、追い払っても追い払っても、懲りずに吸いに来る。
 蚊諸氏には申し分けないが、僕の感覚で言わせて貰うと、アンタ達もうちょっとのとこで死ぬほどの危険な目に会ったのに、まだ吸いに来るの?、という感じだ。
 すんでのとこでペシャンコにつぶされかけるようなヒドイ目に会っても、まだ必死に血を吸おうとしにくる。

 つまり、また僕の感覚で言わせて貰って申訳ないが、彼等にしたら命よりも血を吸うほうが大事だ、ということになる。
 そこまでして吸いてえのか?。
 蚊諸氏には申し分けないが、敢えてハッキリ言わせてもらうと、こういう言い方になる。
 バカじゃねえのっ!。

 死んだら血を吸っても意味が無い、と僕らは思う。僕らならちょっと危険だったら、今回はもうこれで中断し、仕切り直して明日以降で又安全日確認してからスケジュール再調整しませんかね?、くらいの段取りは考える。
 でも彼等には「死んだら血を吸っても意味が無い。」という思想は無いのだ。
 たぶん、そういうことすら考えつかない、いや、考えて無い、いや、考える機能は保持して無いのだ。
 もともとそういう機能が無い彼等に、こんなことを言うのは酷だと思うが、敢えて言わせてもらうと、こういう言い方になる。
 バカじゃねえのっ!。

 おそらく血を吸う目的は、それを栄養にして、子孫を残す、ことなのだろう。まさか人間の攻撃をかわすことにスリルを感じている、などということは、よもやあるまい。人間をおちょくっている、なんていう悪魔的な、人間よりも上から目線の大胆な発想、をしている、なんてことだって、よもやあるまい。

 単純にメシが喰いたい、子孫を残したいだけなのだ。血の匂いがするから全く生物的に引き寄せられてるだけなのだ。
 子孫を残す=セックス。
 ほら、また、メシとセックスだよ。メシとセックスしかねえのかよ。情けねえ。
 だから昆虫は、ダメなんだよ。
 オレの部屋にやってきて、危害を加えるヤツらって、皆昆虫なんだよなあ。
 なに、昆虫って。イライラするっ。

 さっき蚊に刺されて、イライラしている、今日この頃でしたあ。
 もしかして、実はオレをイライラさせて、ダークサイドに落とそうとしている・・・?、だったとしたらオメエラ、あなどれんな。

ダークサイドの意義【曇後雨】2005年10月15日

 今日テレビ朝日「オーラの泉SP」を見ていたら、花田勝氏が現役時代試合の時に相手の「気」のようなものを感じて戦っていたという話をしていた。
 面白いと思ったのが、これがスターウォーズのジェダイの戦い方に似ているのである。

 スターウォーズシリーズの映画だけからは、ジェダイの戦い方についての情報は、あまりわからないのだけれど、エピソード1〜6以外のストーリーを扱ったクローン大戦関係などのノベルズを読むと、その辺の情報が良く出ている。
 かいつまんで言うならば、習練を積んだジェダイはフォースの流れを把握し、その意志によって、その場の状況に合わせながら戦う。

 こうした知識を踏まえて映画を見ると、ジェダイが武術的な技術の他にフォースを使って戦いをしている為、割と見た目に簡単に動いているように見えても、それが力量のあるジェダイの戦法だとわかるシーンなどもあるのである。

 スターウォーズシリーズは勿論フィクションだ。だが実際に花田氏のように「気」を感じとることのできる人にとっては、もはや「フォース」は空想のお話では無くなってきそうだ、

 それにしても霊能者というのは、今の時代においては、つくづく大変だな、とは思う。
 たぶん、ああいう人達が関る事象、関らなければならない事象は、勿論良いこともあるだろうけど、ほとんどがダークサイドな事象だろう。
 悩み相談、カウンセリング、とは言ってみれば、ダークサイドとの付き合い方を処方することに他ならない。
 よほどの霊力と健全な精神が無いと、難しいだろう。

 ところで最近つくづく思うのは、スターウォーズで出てくる、このダークサイドなパワー、というものは、概念では無く実際本当にあるんじゃねえか?ということだ。
 僕も冗談や便宜上、このダークサイドという概念を良く使う。今も使った。
 ダークサイドの事象とは、まあ簡単に言ってみれば地球上での認識で言う「悪」の事象だ。
 僕は身の回りのダークサイドは、自分の心が現象界に投影したものだ、と思って来た。そう思うよう心がけて来た。
 確かに、その側面はある。
 自分自身のダークサイドに気づく、これも大切な修行の一つだ。

 ただ最近、それとは違い、自分のコントロールできるところを越えた、他者のパワーとしてのダークサイドな事象のパワーも、どうも本当にあるような気がしてならなくなってきた。
 自分のイメージでは、ここまで起こらないだろう、というような妨害や中傷や非難といったものが別な力として既に存在しているような、更にはいつもの自分なら絶対しないのに、まるで魔が差したように思いがけない行動をしてしまったりする時、などというものが、少なからずあった。
 いわゆる邪悪な力の妨害だ。

 これらのダークサイドな事象も根本的原因は、自分の波動が引き寄せたということもある。
 ただ言えるのは、言い訳がましく聞こえるかもしれぬが、自分から「ダークサイドに吸引されてしまった」のだ。自分が産み出したのでは無く「近づいていって」しまったのだ。
 ということは、やっぱりダークサイドなパワーがあった、と認めた方が話は早いのだ。

 ダークサイドパワーは、それが簡単に増幅するのが厄介だ。怒りは怒りを産み、トラブルはトラブルを産み、まさにスターウォーズでヨーダが言っていたように、ダークサイドは、陥り易く誘惑的なのである。

 ここからは又僕の空想話として聞いてほしい。
 ダークサイドパワーは、もうあるものと仮定しよう
 じゃあ、一体ダークサイドパワーは、なぜ存在するのか?。
 なぜここまで僕らを苦しめるのか?。

 そのヒントが、又々スターウォーズで申し訳ないが、あの映画には、隠されている。
 それは「フォースにバランスを取る為」、ということだ。
 僕らの実際現世的に言うならば、精神的思想的肉体的、といったあらゆる側面で、バランスを取ることのできる健全な魂を作る為、ということになる。

 表面的には、ダークサイドパワーは、僕らを堕落させたり麻痺させたり混乱に陥れたりして、進化の動きを止める。
 しかしそれは、更に大きな宇宙的観点から見ると、我々にバランスの概念を授ける為の一つの試練、だと考えられるのでは無いだろうか?。

 勿論ダークサイドに関らないで生きていければ、それは理想だし結構なことだ。
 でもスターウォーズのルークのように、どうしても運命的にダークサイドと向き合わなければならない人も少なからずいるはずだ。
 そうなった場合、ダークサイドの誘惑に勝つ云々よりも、更に大事なのは、自分に健全なバランスを取り戻すこと、それが宇宙の真意だと感じることが必要な気もする。

 こうも言えるだろう。
 ダークサイドに打ちひしがれて希望も気力も失った人は、その逆の肯定的なパワーを身につけ幸せに生き、バランスを取り戻す義務があると。
 逆も真なりで、自分だけの進化を追求したり、あるいは力を過信したり幸せに感謝を忘れ傲慢になったり、向上心を忘れ形式主義になったりすれば、エピソード3のジェダイのように、シスから強烈なしっぺ返しを被るかもしれないので要注意だ。

 この「フォースにバランスを取る」というテーマは、あの映画が扱っているテーマの中でも、かなり深い部類に属すると思う。だから簡単に説明するのも難しく誤解も生ずるかもしれない。考察し出せば果ては古の「イエス・キリストの受肉」なんてなところまで話が及ぶ可能性すらある。
 そんなとこまで、この日記ごときでは書くつもりは無いし、書けもしないので、ともあれ僕なりに簡潔にまとめるならば、現世的な事象に左右され自分を見失わない為のバランス、今まで経験したことのない世界と今までの自分の世界とのギャップを埋めるバランス等等、そうしたあらゆる局面でのバランスを取り戻すことが、それがダークサイドパワーの現れる意味の一つなのでは無いか?、そう思う今日この頃なのである。
 この話、まだまだ続けられそうだな・・・。

床屋【曇】2005年10月16日

 しばらく経費節減の為、カットのみのディスカウント床屋に通ってたんだけど、昨日久し振りに洗髪髭剃り有りの所にいった。

 やっぱ床屋は、こうでなくちゃな、とつくづく思った。
 頭洗って髭剃って起き上がった時に鏡に映った、まるで生まれ変わったような目にもまばゆい紅顔の美青年の姿を見て、つくづくそう思った。
 ん?、上記文中に極めて不適切な単語があるだと?。

 やっぱりカット・シャンプー・髭剃りの一連の行程で、一つのサービスなんだなってつくづく思った。床屋は髪を短くしに行くだけなのでは無く調髪して小ぎれいにするという一つの文化を売ってたんだなって感じた。
 それに対して正当な報酬を払うのは全く真っ当なことだな、と改めて思った。