理性的自己も・・・ ― 2010年12月11日
ここ最近かなりの意識の変化を経験している。
その一つに「感情を扱うことについての認識」の変化がある。
昔は、感情に振り回されず、理性が感情をコントロール、すなわち「押さえつけ」て「クール」になることが大事だと思っていた。このことは実際仕事の局面でも効果を発揮し、自分も成長したという実感もあった。
次の段階として、「いや、それではいけない、やっぱり何らかの形で感情を解放してあげなければいけない」という段階になった。感情は、例えば芸術とかボランティアとか、そうしたことにエネルギーを向けてあげるべきだ、感情のエネルギーを昇華してあげるべきだ、ということ。これは確かに今でも、ある一面では真理だと思う。
更に次の段階として、「いつも低次の悪感情ばかりが、ドンドンわき起こってくるのはなぜか?」という壁にぶち当たった。
そこで新たな認識に至ったのが「感情を育成する」という認識だった。
感情が低次なのは、感情自体が成長していないからだ、ということに気づいた。
感情を育成することによって、その感情が次第に純化され、ひいてはそれが芸術とかボランティアの質をも高めるのではないか?、そう思えるようになってきた。
ここで少し補足のようなことをしておく。
人は多かれ少なかれ、自分の中に、なんとなく分裂した自分が何人かいるような感じがしたことがあると思う。
僕も今便宜上、3人の自己が、自分の中にいるようなイメージがある。
一人目は「感情的自己」上記に話したテーマの主役となっている自己だ。
二人目は感情的自己とは対極にいる「理性的自己」。
三人目は、「感情的自己」でも「理性的自己」でもなく、普段ハッキリと認識できないけど、どうもいるような気がして、無意識の行動などを制御しているような役割をしている自己。スピリチュアルな言い方だと「ハイアーセルフ」と呼ばれているものがこれに当たるのでは無いか?と思われる。
また話は最近の意識の変化に戻ると、「感情を育成する」場合、どうしても「感情」だけに焦点がいきがちだったが、最近は「感情を育成する場合、理性も育成しなければならない」のでは無いか?と思うようになってきた。
つまり「感情的自己」と共に「理性的自己」も成長しなければいけない、ということだ。
「成長しなければいけない」と言ったが、実は「感情的自己」と共に「理性的自己」も自ずと成長していく、ように感じている。まあどちらも「自己」なので、これは当然といえば当然だろう。
悪感情に見舞われたとき、そういう自分を責めたり卑下したり罰したりせず、ありのままの自分をまず認めてやる、というスピリチュアルでは基本の癒しのプロセス、というのは、確かに大事だと思う。まずそこから始まるかもしれない。
しかし毎回悪感情が沸いて、癒して認めて、また悪感情が出て、癒して、というプロセスばかりを延々と繰り返していると、ある時、自分の成長が止まっているのに気づく。
こんな時「理性的自己」が、「なぜ同じ事を繰り返すんだろう?」とか「この繰り返す意味は何だろう?」と気づいて、次のステップへの指針やガイドをどうすればいいか発見していくことが必要だ。
これは他の誰でも無く、自分、敢えて言えば、自分の中の「理性的自己」の役割なのでは無いか?、そう思うようになってきた。
「感情的自己」が暴走しそうになった時、「理性的自己」の成長いかんよって、その暴走の昇華の質を更に高められるのでは無いか?、と感じるようになってきた。
同じ暴走を止めるのでも、力づくで無理矢理止めるのと、相手に理解してもらって止めるのでは、大分違う、ということだ。
良く最近「右脳」を強化するのが大事だと言われている。勿論それもそうだと思う。
ただ「理性的自己」を成長させるのには「左脳」で、とことん考えることが大事だ。
本を読んだり、芸術作品を鑑賞したりして、「右脳」で味わったものの意味を考えたり、どういう効果があるとか考えるのは「左脳」の役割だろう。右脳のひらめきを左脳が実際に応用したり現実的なものにする段取りを考えたりする。
つまりは、ここでも右脳と左脳のバランスが良くとれていることが大事、ということになるかもしれない。
理性的自己の成長が大事、というのは、たぶんこの現代社会では今まで散々言われてきた、現代社会において全く当たり前のように思われてきたことだろう。下手すれば地球の人類の当然の課題とすら思われてきたことかもしれない。
それが物質文明・理性的文明の行き詰まりのよって、欠点があることがわかり、理性で無く感情も大切だということが言われるようになった。
それでまた一回りして、やっぱり理性も大切、感情も大切ということになって、一つの螺旋が一段階上昇、つまりは「進化」した(笑)、と僕は思っている。
その一つに「感情を扱うことについての認識」の変化がある。
昔は、感情に振り回されず、理性が感情をコントロール、すなわち「押さえつけ」て「クール」になることが大事だと思っていた。このことは実際仕事の局面でも効果を発揮し、自分も成長したという実感もあった。
次の段階として、「いや、それではいけない、やっぱり何らかの形で感情を解放してあげなければいけない」という段階になった。感情は、例えば芸術とかボランティアとか、そうしたことにエネルギーを向けてあげるべきだ、感情のエネルギーを昇華してあげるべきだ、ということ。これは確かに今でも、ある一面では真理だと思う。
更に次の段階として、「いつも低次の悪感情ばかりが、ドンドンわき起こってくるのはなぜか?」という壁にぶち当たった。
そこで新たな認識に至ったのが「感情を育成する」という認識だった。
感情が低次なのは、感情自体が成長していないからだ、ということに気づいた。
感情を育成することによって、その感情が次第に純化され、ひいてはそれが芸術とかボランティアの質をも高めるのではないか?、そう思えるようになってきた。
ここで少し補足のようなことをしておく。
人は多かれ少なかれ、自分の中に、なんとなく分裂した自分が何人かいるような感じがしたことがあると思う。
僕も今便宜上、3人の自己が、自分の中にいるようなイメージがある。
一人目は「感情的自己」上記に話したテーマの主役となっている自己だ。
二人目は感情的自己とは対極にいる「理性的自己」。
三人目は、「感情的自己」でも「理性的自己」でもなく、普段ハッキリと認識できないけど、どうもいるような気がして、無意識の行動などを制御しているような役割をしている自己。スピリチュアルな言い方だと「ハイアーセルフ」と呼ばれているものがこれに当たるのでは無いか?と思われる。
また話は最近の意識の変化に戻ると、「感情を育成する」場合、どうしても「感情」だけに焦点がいきがちだったが、最近は「感情を育成する場合、理性も育成しなければならない」のでは無いか?と思うようになってきた。
つまり「感情的自己」と共に「理性的自己」も成長しなければいけない、ということだ。
「成長しなければいけない」と言ったが、実は「感情的自己」と共に「理性的自己」も自ずと成長していく、ように感じている。まあどちらも「自己」なので、これは当然といえば当然だろう。
悪感情に見舞われたとき、そういう自分を責めたり卑下したり罰したりせず、ありのままの自分をまず認めてやる、というスピリチュアルでは基本の癒しのプロセス、というのは、確かに大事だと思う。まずそこから始まるかもしれない。
しかし毎回悪感情が沸いて、癒して認めて、また悪感情が出て、癒して、というプロセスばかりを延々と繰り返していると、ある時、自分の成長が止まっているのに気づく。
こんな時「理性的自己」が、「なぜ同じ事を繰り返すんだろう?」とか「この繰り返す意味は何だろう?」と気づいて、次のステップへの指針やガイドをどうすればいいか発見していくことが必要だ。
これは他の誰でも無く、自分、敢えて言えば、自分の中の「理性的自己」の役割なのでは無いか?、そう思うようになってきた。
「感情的自己」が暴走しそうになった時、「理性的自己」の成長いかんよって、その暴走の昇華の質を更に高められるのでは無いか?、と感じるようになってきた。
同じ暴走を止めるのでも、力づくで無理矢理止めるのと、相手に理解してもらって止めるのでは、大分違う、ということだ。
良く最近「右脳」を強化するのが大事だと言われている。勿論それもそうだと思う。
ただ「理性的自己」を成長させるのには「左脳」で、とことん考えることが大事だ。
本を読んだり、芸術作品を鑑賞したりして、「右脳」で味わったものの意味を考えたり、どういう効果があるとか考えるのは「左脳」の役割だろう。右脳のひらめきを左脳が実際に応用したり現実的なものにする段取りを考えたりする。
つまりは、ここでも右脳と左脳のバランスが良くとれていることが大事、ということになるかもしれない。
理性的自己の成長が大事、というのは、たぶんこの現代社会では今まで散々言われてきた、現代社会において全く当たり前のように思われてきたことだろう。下手すれば地球の人類の当然の課題とすら思われてきたことかもしれない。
それが物質文明・理性的文明の行き詰まりのよって、欠点があることがわかり、理性で無く感情も大切だということが言われるようになった。
それでまた一回りして、やっぱり理性も大切、感情も大切ということになって、一つの螺旋が一段階上昇、つまりは「進化」した(笑)、と僕は思っている。
善と悪 ― 2010年12月11日
ここ最近の意識の変化をもう一つ。
それは善と悪、ということについての認識の変化だ。
これはルドルフシュタイナーの著作を読んで、そうなのか、ということを思い始めた。
今まで「悪」というのは人間が作り出したもの、人間の過ちによって派生したもの、という認識があった。
実際そう説いている本などもあった。
僕自身「悪」については今までいろいろと考察し、スターウォーズの影響で、そうしたものを「ダークサイド」という風に称して比喩的な意味で使ったりしていた。
考え方によっては善悪という二次元的なものは無く、それは人間の考え方で、本来はそういうものは無い、という論もあった。
ところがシュタイナーの著作によると、どうも僕らが一般的に「悪」と名付けているパワーが、僕らの生きている次元もしくは、それに近い次元で、実際に存在しているらしい。
つまりやっぱり作った源は、どうあれ「悪」はある、ということだ。
ただしシュタイナーによれば、これはあくまでも我々に近い次元のことで、もっと高次の世界では善悪を超越しており、悪は存在していないという。
つまり悪というものは「低次の世界に実際に存在するもの」ということがいえる。
勿論、ただ単に「悪」は存在しておらず、やはりそれにも意味がある。
シュタイナーによれば、その意味とは「人間の進化の為」であり、人間が筋力をつける時にバーベルなどの負荷を加えるように、進化の為に「悪」という負荷をかけ、強い魂を育成する為に敢えて「悪」を存在させている、のだということだ。
そして「悪」を存在させているのは、更に高次の存在による意志だという。
シュタイナーの言を、まるごと鵜呑みにするつもりは無いが、シュタイナーの論が、今までは一番シックリくることは確かだ。
今まで性善説的な態度で、悪行を見てもこれは、人間の過ちだ、と何とか思いとどめようと無理をしてきたが、「悪」は「悪」と認めることができた方が、すごくスッキリする(笑)。
「悪」は人間を「ダークサイド」に誘うよう誘惑する。
悪も多様で、これこれが「悪」の現象だ、とは包括しにくいが、どのようにして人間が「悪」に誘惑されるか?、みたいなものは結構スターウオーズに割と良く描かれている。
結局僕らは「悪」を克服しなければいけない、という使命を持っていることがわかる。
多くをここで語ることは控えるが、シュタイナーによれば、「悪」は一見全く両極端のパワーを示しているように見えるらしい。
一つの極は「物質的に向かう」極、一方は「天上的に向かう」極だそうだ。
遥か昔は「天上的に向かう」力が強かったらしく、現代は「物質的に向かう」力が強大だ。
勿論どちらの極に偏るのもいけない。
どちらの極に行っても、「なぜ地球に生まれてきたか?」ということを見失う。
物質的に向かって、地上の欲求を満たすことだけに専心するのもいけないし、天上的なモノだけに専心し現実生活を見失うのもいけない。私利私欲に向かったり日々の暮らしだけに没頭するのもいけないし、変な宗教に嵌ってしまうのもいけない。
「悪」を克服する、ということは、このどちらの極にも偏らず、中道を保つことが、克服するということらしい。
それは善と悪、ということについての認識の変化だ。
これはルドルフシュタイナーの著作を読んで、そうなのか、ということを思い始めた。
今まで「悪」というのは人間が作り出したもの、人間の過ちによって派生したもの、という認識があった。
実際そう説いている本などもあった。
僕自身「悪」については今までいろいろと考察し、スターウォーズの影響で、そうしたものを「ダークサイド」という風に称して比喩的な意味で使ったりしていた。
考え方によっては善悪という二次元的なものは無く、それは人間の考え方で、本来はそういうものは無い、という論もあった。
ところがシュタイナーの著作によると、どうも僕らが一般的に「悪」と名付けているパワーが、僕らの生きている次元もしくは、それに近い次元で、実際に存在しているらしい。
つまりやっぱり作った源は、どうあれ「悪」はある、ということだ。
ただしシュタイナーによれば、これはあくまでも我々に近い次元のことで、もっと高次の世界では善悪を超越しており、悪は存在していないという。
つまり悪というものは「低次の世界に実際に存在するもの」ということがいえる。
勿論、ただ単に「悪」は存在しておらず、やはりそれにも意味がある。
シュタイナーによれば、その意味とは「人間の進化の為」であり、人間が筋力をつける時にバーベルなどの負荷を加えるように、進化の為に「悪」という負荷をかけ、強い魂を育成する為に敢えて「悪」を存在させている、のだということだ。
そして「悪」を存在させているのは、更に高次の存在による意志だという。
シュタイナーの言を、まるごと鵜呑みにするつもりは無いが、シュタイナーの論が、今までは一番シックリくることは確かだ。
今まで性善説的な態度で、悪行を見てもこれは、人間の過ちだ、と何とか思いとどめようと無理をしてきたが、「悪」は「悪」と認めることができた方が、すごくスッキリする(笑)。
「悪」は人間を「ダークサイド」に誘うよう誘惑する。
悪も多様で、これこれが「悪」の現象だ、とは包括しにくいが、どのようにして人間が「悪」に誘惑されるか?、みたいなものは結構スターウオーズに割と良く描かれている。
結局僕らは「悪」を克服しなければいけない、という使命を持っていることがわかる。
多くをここで語ることは控えるが、シュタイナーによれば、「悪」は一見全く両極端のパワーを示しているように見えるらしい。
一つの極は「物質的に向かう」極、一方は「天上的に向かう」極だそうだ。
遥か昔は「天上的に向かう」力が強かったらしく、現代は「物質的に向かう」力が強大だ。
勿論どちらの極に偏るのもいけない。
どちらの極に行っても、「なぜ地球に生まれてきたか?」ということを見失う。
物質的に向かって、地上の欲求を満たすことだけに専心するのもいけないし、天上的なモノだけに専心し現実生活を見失うのもいけない。私利私欲に向かったり日々の暮らしだけに没頭するのもいけないし、変な宗教に嵌ってしまうのもいけない。
「悪」を克服する、ということは、このどちらの極にも偏らず、中道を保つことが、克服するということらしい。
最良に巡り会う ― 2010年12月12日
ここ最近かなりの意識の変化を経験している。
それの日常生活編。
今のところに引っ越してからしばらくして炊飯器を新調した。
あれから、かれこれ3年以上が経った。
しかしながら、今までずっとおいしいご飯が炊けたことが無かった。
結構良いグレードのやつを買ったつもりが、期待はずれだった。
その内に他に良い製品が出てきたりして、「炊飯器はずしちゃったな・・・」などと思っていた。
何回炊いても、どうしても何か、こうベタついた感じになってしまっていた。
水の量は大切だ、ということを聞いて、量も正確に計った。
水道水を使わずペットボトルの水を使ったりした。
イイ米も使ってみた。
それでも旨くいかず、もしかしてこういうのが最高の炊き具合なのか?と、世間の感覚とのズレがあるのか?とすら思った。
ただ実家に帰省した時などに、普通の圧力釜で炊いたのが旨く炊けたりしていたのを見て、やっぱりオレおかしくねえよな?などと思っていた。
買った時は結構新製品で、かなりイイみたいな謳われ方をしていたが、これじゃ前のオンボロ釜の方がマシじゃねえか!、などとすら思っていた。
しばらく諦めモードでいたが、今年になって、何かイイ方法は無いか?試してみることにした。
ちなみにウチの炊飯器には「ふつう」「もちもち」「しゃっきり」の3つのモードがあり、ベトベトを回避する為にも、いつもは「しゃっきり」にしていた。
まずベトベトになる、ということは、水が多いんだ!ということに気づき、今までの「水は正確に!」の発想を根本から変え、むしろ真っ向から否定し、自分独自の具合を計って、水を指定されている量よりも、かなり少なめに炊いてみた。
ところがこれが大失敗。
モードは「しゃっきり」にしたままだったのが災いしたのか、何かガッサガサの飯ができてしまった。
テンションはかなりのローダウン。
しばらく又諦めモードに突入していたが、その内ふと「あの水量で「もちもち」にしたらヨクね?」と思いついた。
早速試してみたら、何とあっさり成功!。
やっと、最適の炊き具合に辿り着いた・・・。
ああ、なんか長かった・・・。
最初からベトベトの時点で、水少なくしときゃ良かった・・・(苦笑)。
それの日常生活編。
今のところに引っ越してからしばらくして炊飯器を新調した。
あれから、かれこれ3年以上が経った。
しかしながら、今までずっとおいしいご飯が炊けたことが無かった。
結構良いグレードのやつを買ったつもりが、期待はずれだった。
その内に他に良い製品が出てきたりして、「炊飯器はずしちゃったな・・・」などと思っていた。
何回炊いても、どうしても何か、こうベタついた感じになってしまっていた。
水の量は大切だ、ということを聞いて、量も正確に計った。
水道水を使わずペットボトルの水を使ったりした。
イイ米も使ってみた。
それでも旨くいかず、もしかしてこういうのが最高の炊き具合なのか?と、世間の感覚とのズレがあるのか?とすら思った。
ただ実家に帰省した時などに、普通の圧力釜で炊いたのが旨く炊けたりしていたのを見て、やっぱりオレおかしくねえよな?などと思っていた。
買った時は結構新製品で、かなりイイみたいな謳われ方をしていたが、これじゃ前のオンボロ釜の方がマシじゃねえか!、などとすら思っていた。
しばらく諦めモードでいたが、今年になって、何かイイ方法は無いか?試してみることにした。
ちなみにウチの炊飯器には「ふつう」「もちもち」「しゃっきり」の3つのモードがあり、ベトベトを回避する為にも、いつもは「しゃっきり」にしていた。
まずベトベトになる、ということは、水が多いんだ!ということに気づき、今までの「水は正確に!」の発想を根本から変え、むしろ真っ向から否定し、自分独自の具合を計って、水を指定されている量よりも、かなり少なめに炊いてみた。
ところがこれが大失敗。
モードは「しゃっきり」にしたままだったのが災いしたのか、何かガッサガサの飯ができてしまった。
テンションはかなりのローダウン。
しばらく又諦めモードに突入していたが、その内ふと「あの水量で「もちもち」にしたらヨクね?」と思いついた。
早速試してみたら、何とあっさり成功!。
やっと、最適の炊き具合に辿り着いた・・・。
ああ、なんか長かった・・・。
最初からベトベトの時点で、水少なくしときゃ良かった・・・(苦笑)。
西野カナ ― 2010年12月12日
ここ最近かなりの意識の変化を経験している。
それの日常生活編、その2。
最初西野カナは、女子高生のカリスマ、と言われていて、もう僕らが聞くような音楽ではないなあ、などと思っていた。
ただ声がすごく僕の好きなタイプで、ちょっと気になっていたので、何曲か聞いてみた。
そしたら次第にハマってきた(笑)。
特に「If」という歌が何かこう僕らの世代には懐かしいようなサウンドということもあって、良く聞くようになった。
歌詞は、さすがに僕の世代くらいになると、ちょっと恥ずかしいような照れ臭いような詩なので、座右におくほどでも無かったが、その内出てきた「君って」とか「If」のカップリングの「I'll be there」などは、詩も結構イイので、今や西野カナ自体がヘビーロテーションになりつつある(笑)。
ここ最近は、西野カナと、いきものがかりのベストを聞きながら、晴れた日に荒川や江戸川の川縁を自転車で流すのが、リフレッシュになっている(笑)。
それの日常生活編、その2。
最初西野カナは、女子高生のカリスマ、と言われていて、もう僕らが聞くような音楽ではないなあ、などと思っていた。
ただ声がすごく僕の好きなタイプで、ちょっと気になっていたので、何曲か聞いてみた。
そしたら次第にハマってきた(笑)。
特に「If」という歌が何かこう僕らの世代には懐かしいようなサウンドということもあって、良く聞くようになった。
歌詞は、さすがに僕の世代くらいになると、ちょっと恥ずかしいような照れ臭いような詩なので、座右におくほどでも無かったが、その内出てきた「君って」とか「If」のカップリングの「I'll be there」などは、詩も結構イイので、今や西野カナ自体がヘビーロテーションになりつつある(笑)。
ここ最近は、西野カナと、いきものがかりのベストを聞きながら、晴れた日に荒川や江戸川の川縁を自転車で流すのが、リフレッシュになっている(笑)。
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