オカシナ法律2006年11月21日

 今日は久しぶりに早く家に着いた。平日こんな早く家に着いたのは久しぶりだった記念、として、これまた久しぶりにガラにも無く、家で自炊して野菜炒めを作ってしまった。ちなみに塩加減失敗して薄味になってしまった。うっっす〜。

 野菜炒めをつまみに、こないだお気に入りのキャバネエチャンから誕生日祝いに貰った日本酒で一杯やる。辛口渋めの日本酒だ。今時流行の吟醸酒では無く昔ながらの日本酒をセレクトしてくれたとこがイイ。野菜炒めに合ってる。

 こうして久しぶりに日記を書いて思うことには、5,6年前は結構まだまだHP書く時間があったような気がする。
 今は仕事の忙しさでは、そんなに以前と代わりは無い。ただ今の職場は始業が早いので、その分早く寝ようとしてるのが、時間が無くなってる主たる原因のようだ。

 ま、そんなこんな考えつつ新聞を見ると相変わらずの世相のようだ。
 ちょっと真面目なことを考えてみた。

 国を愛する、ということ自体は、別に悪いことでもなかろう。
しかし、愛という観点から見れば、国を愛するなら、県も市も故郷も愛し、勿論アメリカや中国や北朝鮮だって愛するのが当たり前だ。まず愛に国境は無い。

 それから身の回りの人、友人や家族だって愛するし、何より自分自身を愛さなくては人だって愛せない。

 そんな自分自身や隣人を愛せないうちから国を愛するなんてできるのだろうか?。すべきなのだろうか?。
 僕らはほとんど自分自身や隣人を愛することを学ぶのに、多くの時間を費やす。
 国を愛してる暇など無い人が大部分では無いのか?。
 実際問題、よーく考えてみよう。
 国を愛するって、どういうことなのか?。
 具体的にイメージできるのか?。それは風土や自然や人を愛するということでは無いのか?。
 良く考えてみれば国という概念も曖昧なまま、それを愛する、ということが曖昧で無いと言い切れるのだろうか?。
 百歩譲ってできたとしても、なぜそれを殊更法定しなければいけないのか?。

 愛の観点からすれば、自分や隣人を愛さないのに国を愛することを強要するのは不自然だ。
 まず自分や隣人を愛する教育をし、人種や身分を超えた愛を教育するのが愛の教育であろう。

 それを、なぜわざわざ国、と限定するのか?。
 なぜ法定するのか?。すなわちたぶんこの法定沙汰には、愛などでは無い、もっと別な利益を狙った意図があるからだ。
 このオカシナ法律は、しかも何か非常に不自然で破廉恥な決め方で無理矢理決められようとしていたようだ。

 何か邪悪なものを感ずる。
 僕は左でも右でもないが、この最近の顛末は、あきらかにオカシイ。

 最近スパムメールやオレオレ詐欺などの悪質な詐欺行為が横行している。
 しかしこの現象を、ものすごくポジティブに捉えてみると、これらは、政治などの虚偽に対して、見抜ける力を養う練習をさせてくれているような気もする。

 ダークサイドは、大抵、さもそれらしい風体で我々に近づいてくるものだ。
 スパムだってそうだ。
 だが良く考えれば、明らかにオカシイのがわかる。
 愛というもっともスピリチュアルでも大事なものの名を借りれば、国民がなびくと考えたのだろうか?。愛という名を借りたダークサイドの介入だ。

 しかし皮肉なことに、愛を知る人であれば、逆にここで法定される愛国という観念が、いかに特殊で別な意義を持ったものかはわかってしまうのである。
 愛の観点、もっとも人間らしい観点に立てば、明らかにオカシイとわかる理性を僕らは持っている。
 もう騙されない。

 まあ、愛にそぐわないものは、いずれ淘汰されると思ってるので、心配はしてないけど。

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