やっと暮らし始めた2007年11月04日

 今年五月に引越してから、心境にも大分変化が出てきた。
 今まで、おろそかにしていた家事、食事、そういった生活の最もベースの部分に、今、結構時間とエネルギーを費やしてる。

 卓上掃除機を買って、部屋に落ちてる毛や埃をこまめに除去するようになった。
 サビ取りの砂消しゴムのようなものを100円ショップで買ってきて、レンジや流しのサビを取ったりするようになった。
 そうそう。ここんとこ100円ショップに行くのが楽しくて、いろんな「あると便利」グッズも買いそろえてる。

 今まではコンビニでくれた、プラスチックのスプーンを後生大事に使っていたけど、それをやめて、金属のスプーンに変えた。
 野菜の鍋を作るときも、今までコンビニの鍋焼きウドンのアルミの鍋を後生大事に使い回していたのをやめて、100円の土鍋に変えた。
 スプーンも皿も鍋も、ちゃんとした陶器やガラスや金属にすると、おいしさが全然違う。
 なんで今までやってなかったんだろう?。

  大分昔に貰った電動ハブラシも、使ってなかったのを、換えのブラシを買ってきて、やっと使い始めた。
 使い始めたら、まあ、歯がツルツルになること!。 なんで今までやってなかったんだろう?。

 暖簾や行灯風の和風のライトを買ってきて、ちょっと部屋の中に遊び心を設けてやることにした。
 やってみると全然気分が違う。ちょっとしたことで、こうも違うのに、 なんで今までやってなかったんだろう?。

 なんだか最近になって、ようやく「暮らし」始めたような気がする。
 まあ、前の住居は、なにせ狭くて全然ゆとりがなかった。そうしたことをやる気分にもならなかった。
 そうしたことが必要とも思わなかった。欲望は抑えて最低限の必要が満たされていればいい、という考えだった。でもやはり物理的にも精神的にも、ゆとりの無いことが、知らず知らずに見えないストレスになっていたようだ。
 今まで全然「暮らし」てなかったな・・・、そう思う。もう東京に来て25年も経つし、一人暮らしも随分長いはずなのに、今まで全然「暮らし」てなかったな・・・、そう思う。

 風呂場の排水溝も2週に一辺くらい、パイプのつまりをとる洗剤を使って掃除するようになった。
 風呂場の排水溝がつまると悲惨だ。
 だから掃除する時は、ちゃんと蓋を開けて、中のつまったヘドロやら髪の毛やらゴミやらを綺麗に取り除いてやんなくてはならない。これは夜やるとストレスになるので、晴れた休日に行う。
 臭いのや汚いのを我慢して、ようやく綺麗になった排水溝に水を流すと、渦を巻いて綺麗に水が流れていく。

 人間の心も、たまには風呂場の排水溝のように、掃除が必要かもしれない。
 蓋を開けるのは勇気がいる。臭いのや汚いのが出てくるかもしれない。だからなるべく、晴れた日のように気分が良いときに、思い切って排水溝の蓋を開けてみる。中には詰まった古いカスや昔の残骸が残ってるかもしれない。もう臭くていらなくなってしまったゴミは取り除いて、綺麗に洗い流してやる。
 そうすると、又、渦を巻いて、綺麗に流れ始める。

よく考えるとオカシナもの2007年11月10日

 小沢一郎氏の退任・復帰劇は、さすがの政治の音痴の僕も、ちょっとびっくりした感があった。

 僕は、政治に関しては、未だ不信感が拭えず、どこの誰もが信じられない。
 郵政民営化によって、日本の資金がアメリカの軍事などのダークサイドな方面に流れていきやすくなったとも言われている。

 この小沢氏の顛末に関しても、ネットなどの情報を見ると、テレビで大々的に報道されている感じとは、全く違う理由が見えていたりする。

 ただ何となく感触としては、ちょっと面白い方向に展開しているような気もしている。
 山田洋行の件とか、次第にダークサイドな部分も明るみに出てきてくれていると思う。

 マスコミなどは大衆の心理を操作するのは、お手の物なので、物事の真実の側面は見えにくい。だからテレビや新聞上で何が起きても(起きたように見えても)、それに囚われないようにすることが必要だ。

 天災などの現実的な問題に対処するのは大切なことだ。
 しかし、そうでは無く、作り上げられた恐怖、お互いの誤解による無益な争い、そうしたものにエネルギーを費やそうとする動きには、注意し冷静に対応した方が良い。

 スパムメールというのは、非常に鬱陶しいものだ。
 しかし、ダークサイドなやり口を僕らが学ぶのには、ちょうど良い教材になる。
 ダークサイドなものは、スパムメールに象徴されるように、非常に微妙で判別が付きにくく紛らわしい。さも親しげに近づいたり、間違ったと開き直って逆に誘い込もうとしたりする。何度も何度も仕掛けて、こちらが根負けしてくるのを待ちかまえていたりする。
 それはもう、ありとあらゆるあの手この手で、僕らから実に巧みにエネルギーを奪おうとする。時には賞賛したいくらいの見事な技すらある。
 だが全て「良く良く考えてみるとオカシイ」ものなのだ。

かくも偉大なもの2007年11月11日

 今年五月に引越をして、かつて学生時代に住んでいた場所の近くに越してきた。
 そうしようと強い意志があったわけでは無く、たまたま探していたら適切な物件があり、現在の住居が決まった。
 生活圏が、まるで昔に戻ったようになった。

 自転車で、そんな街を駆けめぐっていると、やはりどうしても昔に意識が飛ぶ時がある。それで、突然「そう言えば、あの頃こんな曲聞いてたっけな・・・」と思い出して、急に聞きたくなった曲があった。

 それが稲垣潤一の「雨のリグレット」という曲だ。
 これは稲垣潤一のデビュー曲で、当時ドラムを叩きながら歌う姿が印象的で話題になった。
 只僕は、どちらかといと、このスタイルよりは、当時好きだったオフコースの「松尾一彦氏が曲を提供した人」ということで注目してたアーチストだった。

 この後稲垣潤一は80年代に今でも僕の好きな「夏のクラクション」の入ってる「JI」とかの名盤を出して、90年代にに入ると「クリスマスキャロルの頃には」などで一世を風靡したりした。

 「夏のクラクション」は今でも聴くのに、どういうわけか「雨のリグレット」は聴いてなかったなあ・・・、ということで早速聴こうと思ったが、カセットテープの音源しかなかったので、itunesstoreを探したら、なんと運良く「雨のリグレット」があった!(25年も前の曲なのに!)。

 ipodを買ってから、「あの頃聴いた曲」のプレイリストをいろいろ作って聴いている。
 ただ学生時代聴いていたようなリストを見ていると、なんだか悲しい曲ばっかり(苦笑)。
 大衆歌謡は、恋愛の歌が多いものだが、こんだけ悲しい歌ばかりを聴いてたら、恋愛に対しても激ネガティブになって当然だったな(苦笑),と昔を振り返り「苦笑」の連続だ。

 「雨のリグレット」も、例に漏れず、切ない恋愛の歌だ。
 曲調はアップテンポで、当時流行ったアレンジが施してあり、詩の感じや楽器の使い方が、ちょっと時代を感じさせるものもある。

 でも不思議なことに、年月と懐かしさが、何かを超えさせたというか、なぜかこの曲を久しぶりに聴いた時に、言いしれぬパワーが沸き上がってくるのを禁じ得なかった。

 人によって、いろいろと、その時に聴いた曲、思いでの曲というのがあるだろう。
 そして、その音楽は不思議なことに、こちらが頼んだわけでも無いのに、まるで生涯の友のように、その人に影響を与えているものだ。
 
 もう音楽を聴いて何十年にもなる。
 それでも音楽への畏敬の念というのは今まで失せることは無かった。
 それどころか日増しに、その偉大さを実感するばかりだ。
 音楽は時を超え、僕らをあるべき場所に導いている、偉大な師であるかのようだ。