当たり前が奇跡2008年02月16日

 昨年引っ越して以来、精神的にも徐々に、いろんな変化が起こり始めた。
 やはり引っ越ししたのは正解だった。
 小林正観氏の著書に”トラブルは、普通の生活が、いかに幸せで奇跡的かを知らされる為に起こる”というような意味のことが書かれてあった。

 今の僕の生活は、当たり前のことに感謝させられることが多い。
 朝起きて洗面所で顔を洗っていると、窓から明るい光が入ってくる。
 それだけで感動する。
 なぜなら以前は洗面所にも風呂場にも窓が無く、朝シャワーを浴びていると、息苦しくなってきて、それから後に控えているの仕事のことを考えると、それも併せて朝からストレスでブルーになっていた。
 でも今は、朝の光を浴びるだけで、憂鬱な心も癒される。朝の光が、こんなにもありがたいものだったなんて。

 以前テレ朝の「オーラの泉」で、生死を彷徨った女性が奇跡的に蘇ったというエピソードに加えて、その際失明していたのが30年ぶりに視力が回復した、という話をやっていた。
 その女性は、目が見えた喜びを、こう語っていたそうだ。
 「見るもの全てが美しい」
 一度失明し視力を失って、そこでもう全てが見えなくなり絶望していたものが、長い年月を経て再びこの世界を見ることができるようになった時、その視界に入ってくるものは何であっても、どんなに美しく、いとおしく見えることだろうか。
 
 汚い話になってしまうが、視力に限らず、嗅覚などを失って、何年も匂いがわからなくなって自分はもう、ものの匂いは嗅ぐことができない、そう絶望していたのが、長い長い年月を経て匂いがかげるようになった時、例えウンコの匂いでも、いとおしく感じてしまうのではないだろうか?。

 僕らが普段、普通・当たり前と考えていることは、実は奇跡の連続だということがわかる。
 空気、水があること、暮らしていける気温、青空が見えること。仕事があること。家族が健康なこと、ましてや人生で大切な人が存在すること。
 普段僕らは、それに気づかない。そこにある奇跡に対して感謝の念をスッカリ忘れている。
 そして、トラブル、問題、苦難などが、時としてそれに気づかせてくれるのである。

 昨年引っ越してから、部屋にスペースがあることや、それに伴って所有することになった、小さなアイデア日用品などにも感謝させられることが多くなった。
 それは偏に、引っ越す前の住居で不自由さを味わっていたことがあってこそだ、ということが良くわかる。そう考えると以前の窮屈な暮らしも十分意義があったと言える。

 今日は天気が良かったので久しぶりに街歩きをした。
 青空の下、商店街や民家を眺めていると、何か忘れていた懐かしい感じを急に思い出す。
 この「忘れていた懐かしい感じ」は、おそらくかつては「当たり前で実は奇跡なこと」に属していた、いや今も属しているものなのだろう。
 それにしても、なぜ、この暖かい懐かしい感じを、普段は忘れてしまうのだろう?。
 忘れなければ、もっと落ちついて余裕がある気持ちのままに暮らしていけるのに・・・。

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