アナと雪の女王2014年08月02日

「アナと雪の女王」を見てきた。

ディズニー映画らしく、愛もテーマになっているが、良く観るとこれが、なかなか深い。

愛情深いアナやクリストフ、俗物に堕すハンス王子等、言及したいキャラクターがいろいろいるが、図らずも先日見た「マレフィセント」にも共通した重要なモチーフ「魔力を持った女性(しかも女王)」として描かれている、エルサについて少しだけ触れておく。

エルサは自分が持っている強大な魔力をコントロールできず、それで自分の国を凍りつかせたり、アナを傷つけたりする。

そんなエルサが最後に魔力をコントロールできたのは、愛に目覚めた(この話ではアナへの、すなわち妹に対する愛)からであった。

実際の我々の生活においても、各種の才能を持ちながら、その芽が出ることなく、或いは才能に溺れ自滅して、その才能をつぶしてしまう、という人も沢山いただろう。

もし、愛を学んで、愛と才能を持って社会と関係していたら、その才能を存分に発揮できていたかもしれない。そんな教訓的な暗示も、このエルサの話から読み取れるだろう。

いや、才能を生かすことだけに限らず、生きていく、という上で、愛を学ぶ、愛に目覚める、ということは、とても大事な、もしかしたら人類の至上命題と言っても良いくらいのことであるとも思う。

似ている?2014年08月10日

子供の頃、地方に住んでいた僕は、東京にかなりの憧れを抱いていた。
当時の銀座四丁目の交差点や新宿の街並みの写真を、飽くことなく、憧憬を持って眺めていた。

大学に入学することになって、東京の大塚に住むことになった。それは自分の意志では無く、当時の状況で、そうせざるを得なかった。

最初の大塚の印象は最悪だった。
大塚から王子方面に通ずる折戸通り、という通りを歩いたのであるが、僕の田舎には無かった都会の哀愁、街の裏の世界の侘しさみたいなのが、僕の心象にドッと流れ込んできた。
あの銀座四丁目の華やかさとは、うって変わった寂しさに、東京に裏切られたように感じた。

時は流れ30年以上経った。

僕は今折戸通りを王子方面に行った付近に住んでいる。
大塚には今でも良く行くし、今は銀座の風景よりも大塚の風景の方が、愛着があるし自分に合っているように思う。

僕は未だ独身で、結婚生活の経験が無いので偉そうなことを言える立場に無いのであるが、もしかしたら、街と女性との結婚に共通するところもあるのかなとも思う。

最初銀座のような華美な点に惹かれ、いざ結婚したら、大塚のような面が露呈し、裏切られたように感ずる。
しかし年月を重ねて、いつしか大塚面も愛せるようになる。場合によっては、そちらの方が好きになる。

独身男性の妄想でした。

忍耐の時期2014年08月17日

自民党政権になって1年半以上過ぎたが、現在の多くの有権者は、自民が政権をとると、こうなる、という現象を、どれだけ痛切に感じているか、実態を知りたいもんである。

それが次回選挙のパワーになってくれればいいと思う。

ただ、その際受け入れ口となる政党がいないと困る。

民主党は、その第一党であった。

しかし、なかなか決められない政党だった、という印象がある。
なぜ、そうなってしまったか、というと、なんと民主党内に、自民党的分子がいたからだ、というのが、今は定説のようだ。それじゃあ決められるものも決められないだろう。
であるから、まずその分子が自民党に移るか独立するか何かしてもらわないと、民主党が受け入れ政党としての準備が整わないだろう。

ただそうした準備が整わない内に、解散総選挙をやってしまい、現政権を安定化させようという噂も出ている。

客観的に見れば、姑息な手段、ということだろう。

僕は個人的には、今の政権の大衆を度外視した右翼的な政策や、経済至上的な政策は、次の新しい政治への過渡的なものだと思っている。
つまり大衆を度外視したことによって、大衆の潜在パワーに圧力をかけ、それを熟成させ、それを引き出す為のプレッシャーなのだと、認識している。

であるから政治的な表面的な取り繕い政策や、金銭で解決する手段などは、早晩通用しなくなるのではないか?と思っている。

ただその為には、今は忍耐の時期だ、と思っている。
その間に、野党に頑張って準備を整えてもらいたいもんだ。

待つ極意2014年08月29日

忍耐力が必要な局面に「待つ」時が挙げられる。
待っている間何も成すすべが無い時は、苦しいもんだ。
こんな時に忍耐力があるといい。
忍耐力があれば、長い時間待ち続けることも可能であろう。

ただ「待つ」時には、忍耐力の他に、ある種の意識の切替も効果的ではある。
すなわち「待つ」間に、他の作業をしたり、他のことを考えてみたりして、一時的に待っている状態では無い状態と同じ状態に意識を持っていくことである。
他のことを考えて、そちらに夢中になっている内に、いつしか待っているものがやってきた、などということになる。

これは「待つ」間に、すなわち「待たない」ようにすること、でもある。

つまり「待つ」極意の一つとしていえるのが、「待たない」こと、となるのである。

継続は力なり2014年08月31日

継続は力なり、というが、これは確かにそうだ。

勉強、趣味、特技、などいろいろな面で、そう言える。

継続していると、その技術自体の習得以上に、そのことに関するノリというのか、直観みたいなものも、習得されていくのがわかる。
例えば、何かを順番に習得していくと、次に来るのはこんな感じだ、と事前にわかってくるので、以前の何分の一かの時間で習得することができる、というような感じだ。

継続しないで、断続してやっていると、なかなかこの直観が育まれにくい。
断続のインターバルが長すぎると、尚更育まれにくい。

ものによっては継続は、一日5分足らずでもいいものもあるだろう。
一日5分を毎日することに意味がある。
勿論毎日が不可能な時もあるだろう。その場合は、とにかくノリを切らさないことが大切だろう。

継続とは、直観を育む為のものだ、ともいえるだろう。