又々シスの復讐の話しです2005年06月05日

 「スターウォーズ・エピソード3・シスの復讐」の公開も一ヶ月近くに迫って来た。
 評判はかなり良いようだし、僕としては前作前々作のエピソード1・2も好きなので、それより世評の良いエピソード3は、たぶん僕にとっては面白く無いわけが無いだろう。

 スターウォーズの新シリーズでもあるエピソード1〜3では、ダークサイドに大きく焦点を当てている。
 スターウォーズで言うダークサイドは簡単に言えば「悪」の側面と言って良いが、すなわちそれは怒り・不安・悲しみ、といった人間の負の感情によって引き起こされる暗黒面を象徴している。
 本来であれば、そんな否定的なものを扱った映画なぞ毛嫌いされそうなのに、僕を含め、なぜ人はスターウォーズに魅了されるのか?。

 僕自身ここ数年、人間のダークサイドな部分に非常に興味を持ち、ある意味マイブーム的なテーマにもしている。
 スターウォーズは、僕のそんな志向に都合よくシンクロしてくれた。

 ダークサイドな感情と、いかに向き合うかは人間の持つ大きなテーマの一つでもあると思う。
 たぶん・・・、今の人類はダークサイドをコントロールすることに非常に困難を感じ、最も不得手で、最も避けて通りたい、最も忌避すべきものとしてダークサイドに対しているだろう。いや、もっと言えばダークサイドに対しては、どうしたら良いのかわからない、というのが本当のところであろう。

 スターウォーズは、そんなダークサイドを描くことで、人間の中に潜むダークサイドな部分を、娯楽映画という形に変え浄化している。
 すなわちスターウォーズを見ることで、ダークサイドに対して僕らが抱いている悶々とした思いにカタルシスが起こるのである。
 これは日本映画の傑作「仁義なき戦い」にも同じことが言える。

 話しは少し変わるけれども、ダークサイドな感情は意外に芸術にとっては不可欠であったりする。
 ダークサイドパワーが芸術的昇華を遂げ素晴らしい作品になった例を、僕らは数多く知っている。
 つまりはダークサイドも上手にコントロールすることで大きな善なるパワーに変わることもあるのである。
 優れた作品はダークサイドを実に巧みに取り入れている。ダークサイドな部分があるからこそ、そこに+αの面白みが加わっているものを沢山僕らは知っている。
 モーツァルトの「魔笛」が傑作であるのは、一つにはダークサイドとライトサイドの見事な対照があるからだ。

 もしかしたら、実はダークサイドを芸術的に表現することこそ、その営みの核心部分なのでは無いか?とたまに思う時もある。
 偉大な作曲家やアーチストの晩年や後期の作品が優れていくのは、簡単に言うと「深みを増す」からということになる。
 この「深みを増す」ということは、幾多の苦しみや悲しみを越え、学び、吸収し、成長し、精神的に成熟したということ、言い替えれば「ダークサイドを上手に芸術的にコントロールするようになった」ということに他ならない。

 エピソード3ではアナキンスカイウォーカーがダークサイドに堕ちてしまう。
 そして時系列的にはそこに続いていく旧シリーズの最終作エピソード6で、アナキンは死の直前、初めて親子の愛を通じダークサイドから再び善に戻り、皇帝というダークサイドの象徴に打ち勝つことができるのである。かくしてアナキンは長い年月を経た後予言通り、フォースにバランスを取り戻すのである。
 この壮大なサーガでは、アナキンの生き方を通じて、まさしく我々人間がダークサイドに対峙した際の、一つの示唆を与えてくれているのである。

 ダークサイドに堕ちてしまった、アナキン・スカイウォーカー=ダース・ヴェイダーが、悪の暗黒卿であるにもかかわらず、これだけ人気があるのも、実はアナキン自身が、本来最も人間的で、僕らに近い感情を持ったキャラクターであるからであろう。

 ダークサイドといかに向き合うか、どう変えていくかは各人がそれぞれのやり方で学ぶべきことではあるだろう。
 例えば、怒り妬みといったダークサイドをユーモアや強烈なビートに、不安や悲しみを歌やメロディー、更には絵画や文学などに変えていくこともできるだろう。

 スターウォーズでは、アナキン・スカイウォーカーは「ダークサイドを滅ぼす者」では無く、あくまでも「フォースにバランスをもたらす者」として予言される。いかにも暗示的だ。
 僕らは今まではダークサイドな感情を、それが沸き起こるがままに、翻弄され囚われ、爆発させ苛まれ過ごして来た。
 これからはダークサイドな感情を、いかに上手に解き放つか、いかに浄化し、ライトサイドなパワーに変えていくか、そんなことが求められていくのかもしれない。