怪我して気づく ― 2013年09月08日
先日右手の親指の先を調理器具で切ってしまった。
もう大分直ってきたが、2~3日は右手が思うように使えなくて、大層不便をした。
親指の先を、ちょっと切っただけなのに、もうそれだけで身体の機能のバランスが崩れ、普段していた簡単な作業が思うように出来ず、全く日常の流れがスムーズにいかなくなる。
健康は確かに大事だ。
親指の機能がちょっと欠けただけで、途端に日常生活に支障をきたす。
つまりは、親指が健常な状態にあるということは、当たり前のように思えるが、実は健常に保つために、様々なバランスが保たれているということだ。
まるで均整のとれた巨大建造物の如く、どこかのパーツが欠けても全体の調和を失う、ということだ。
パーツを失うことで、初めて巨大建造物が如何に素晴らしい均整のもとに構築されていたかがわかるように、人体も怪我などによって、初めて、その奇跡的な構造のバランスの素晴らしさに気づく。
逆に言うと、病気や怪我は一つには、まさに、そうした平凡な日常の中の奇跡に気づくためにある、と言えるのかもしれない。
もう大分直ってきたが、2~3日は右手が思うように使えなくて、大層不便をした。
親指の先を、ちょっと切っただけなのに、もうそれだけで身体の機能のバランスが崩れ、普段していた簡単な作業が思うように出来ず、全く日常の流れがスムーズにいかなくなる。
健康は確かに大事だ。
親指の機能がちょっと欠けただけで、途端に日常生活に支障をきたす。
つまりは、親指が健常な状態にあるということは、当たり前のように思えるが、実は健常に保つために、様々なバランスが保たれているということだ。
まるで均整のとれた巨大建造物の如く、どこかのパーツが欠けても全体の調和を失う、ということだ。
パーツを失うことで、初めて巨大建造物が如何に素晴らしい均整のもとに構築されていたかがわかるように、人体も怪我などによって、初めて、その奇跡的な構造のバランスの素晴らしさに気づく。
逆に言うと、病気や怪我は一つには、まさに、そうした平凡な日常の中の奇跡に気づくためにある、と言えるのかもしれない。
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