逆においしい、に学ぶ2013年02月10日

お笑い芸人さんが、何かハプニングがあったりすると、「逆においしい」みたいなことで、それを笑いに変える、というようなことがある。

このお笑いの「逆においしい」感には、学ぶべきことが大いにあるよ思う。

「逆においしい」とは、一見ハプニングで不利に思える状況も、俯瞰して見た場合は、もっと大きな利得がある、と察知し、それをより良い状況に変える、ということになるだろう。

人生においても、不運とされる状況も、もっと俯瞰して見れば、人間の成長にプラスになるのだ、ということを理解できれば、いろんな意味で「逆においしい」といえるのではないだろうか。

僕は個人的には不運というのは無い、と思っている。

というよりも、そういうふうに「不運が無いと思うこと」が重要なのだと思う。

「俯瞰して見る」というのは「自分たちより高い段階の視点で見る」ということであり、図らずも、それは我々が目指すべき高次の段階、所謂「天界」のレベルに他ならない。

「天界」では、不運というのは、魂を成長させる出来事で、そのレベルから見たら、不運どころか、どうしても必要な貴重な体験であろう。

「不運」は克服して成長する為にある、と考えれば、必ず何かしら解決の道はあるはずだ。

そうした克服する為の希望・信念・忍耐力を醸成することこそが、重要なのだと思う。
すなわち「不運」という言葉のイメージにはまらないこと、や不運が成長の糧になると信ずること、をしていくと、「不運というのは無い」と思うようになる。


「不運」という言葉のイメージにはまって、そこに長く留まってしまうことは、「天界」の思想では無い。
「運」が「不である」と考えるのは、物質世界での欲望成就を正と考える思想に基づいたものであって、それは物質世界だけに捉われたある種の魔的な思想ともいえるかもしれない。
「天界」では「運」には不も何も無く、全ては成長の為に用意されたものであるから、逆になぜ「不」なのか?、という問いすら生じるかもしれない。
勿論感情的な配慮から「運」が「不」だと思いたい心情は天界でも重々承知してくれているはずだ。
でも「天界」は、地上の我々に、いつまでも、そこに留まっていないで、少しづつでも自分たちに近づいてきてほしい、と願っているはずだ。

であるから、そうした不運も「逆においしい」と感じ、ある種の「明るさ」を持って、困難を克服していける精神を養うこと、こそが重要であり、我々に課せられた課題なのだと思う。

せっかちで2013年01月20日

僕は若い頃自分はノンビリした方だと思っていた。

しかし中年になって、そうでも無いことがわかってきた。
結構せっかちだったということに後で気づいた(笑)。

今でも良くやってしまうのであるが、何かをを持ったまま別な作業をしたりしてしまう。
あと録画した番組を見る時に、まず最後の方、すなわち結果を先に見てしまう。映画やドラマでもそうである。
結果がわかって、安心してから見るのである(笑)。
行列に並ぶなど、もってのほかで、並ぶくらいなら別の店を探す。待ってられないのである。

どの本だったか忘れたが、人には2種類あって、「決定しないと落ち着かない人」と「決定してしまうと落ち着かない人」というようなことが、書いてあったように思う。
それでいくと、僕は完全に「決定しないと落ち着かない人」のようだ。

僕のような、せっかちな人間においては、人生で何が起こるかというと、せっかちを矯正するような事態が起こるであろうことは、スピリチュアル的に考えれば想像に難くない。

すなわち「せっかちだった為に失敗する経験」である。

今思い返せば、あれもこれも、といろいろせっかちで失敗してきた(笑)。

いろいろと悔やむべきこともあるが、覆水盆に返らずである。
結果を早く知りたいが為に経過を忍耐強くじっくり待つことができず、焦ってしまい失敗する。
せっかく卵が孵化しようとしているのに、殻を無理矢理こじ開けて台無しにしてしまう・・・そんな事が過去にもあった(笑)。

今でも勿論細かいことで、せっかちを矯正するような事態が起こる。
何かを雑にやったりすると、もう一度やらなければならなかったり・・・。

ただ、そんな時、過去の失敗を思うと、もう二度とあんな失敗はしたくない、その為に今のこの事態は起こってくれたのだ、と感謝の念がちょっとづつ芽生え始めてはいるのである。

ジョンとヨーコ2012年12月30日

ジョン・レノンとオノ・ヨーコは付き合い始めた時は、相当な非難を浴びたらしい。

今でこそ日本人女性の世界的なステータスは上がったようではあるが、あの当時は日本人というだけで軽蔑されていた感じは確かにあった。

シュタイナーによれば、人間は進化するにつれ民族性を超越していく、という。
つまり血縁とか民族的な垣根を越えて、人類がお互いに絆を深める時代が、そう遠くない時代に来るのだろう。

ビートルズは今では当たり前になっていることを、まだ周りの圧力が大きな時から成し遂げてきた。
改めてジョンは、やはり人類の何十年も未来のスタイルを先取っていたんだな、と実感する。
さすがビートルズ、である。

今も在り2012年12月24日

一般の、キリスト教で無い、特に僕らのような日本人にとって、イエスキリストは、過去の歴史上の人物、というイメージで捉えられていることだろう。

シュタイナーは、その著書などで、イエスキリストに関してかなりの論述をしている。

それによれば、キリストは過去の人などでは全く無く、今も地球と共にあるという。

但し、それは我々が日々暮らす、この物質世界では無く、その一つ上の次元の「エーテル界」という世界だという。

「エーテル界」は、実は我々人間も、エーテル体というのを保持しており、それを通じて関係性を持っている。
しかし、エーテル体に関しては、今の大多数の人間はまだ認識することができない。

いつからキリストは地球と共にあるようになったのだろうか?。

それは、僕らがキリストが処刑されたと認識している、あのゴルゴダの丘での出来事、あの時以来からだそうだ。

あの出来事は、地上的に見ると、一人の男性が処刑された、というようなことになってしまうが、霊的な感性を通じて見ると、あの出来事は、キリストの血が地上に流れたことで、まさに神と地球との結合がなされた瞬間であり、人類の進化にとって無くてはならない出来事だったようだ。

あの時以来地球のエーテル界にキリストは在るようになった。

今後人間が進化しエーテル体を認識できる人間が増えるにつれ、キリストが今も或ることが、徐々に我々人間に明らかになっていくのだそうだ。

まず愛と知恵を2012年12月23日

先日の選挙では自民党が政権与党に返り咲いたが、その得票数は前回よりも下がっているらしい。
有権者は徐々に自民から離れつつあるのに、なぜか自民党が勝ったように見えているのは、前回民主に入れた多くの人々が今回は、いわゆる第三極と呼ばれる政党に投票し票が分散され、死に票というものが多数出てしまった為らしい。
更には不正選挙が行われた、という噂すらある。

どうも制度自体に問題があるのか、トリックというか、得票ゲームのような事態が起きて、有権者の7割以上が望んでいない政党が政権与党になり「何かを変えよう」という人の願いは無駄になってしまったように思える。

大きな振り子が、ちょうどいいバランスの真ん中で止まらずに、左から右へ大きく揺り戻しした感がある。

人類の進化が、振り子の如く、或いは螺旋階段を登っていくようなものだとすると、今回の結果は、ある意味シナリオ通りなのかもしれない。

この7割、いやもしかしたら8割以上の人間の鬱積した不満というのは、早晩何かの形で噴出するかもしれない。
今諸外国でも国が生まれ変わろうとして様々な国で変革や為政者の交代や動乱が起きており、日本でも前回の民主党の時は反原発のデモなどが高まりを見せたが、今度何か政府がヘマをやらかせば、さすがの大人しい日本人も堪忍袋の緒が切れるかもしれない(笑)。

ただ今回の選挙で、僕はハッと目覚めさせられたのは、これは前からわかっていたことなのであるが、本当の問題は我々の心の側にある、ということだ。

確かに今回の結果には、表面的に、マスメディアの扇動や政治家の虚偽や不正や外国の関与による要因などが大きく関わっているのかもしれない。
しかし選挙が物質世界での一つの現象と考えれば、これは我々自身の怒り・疑念・混乱・失望・恐怖・無関心・エゴイズム・・・等々といったダークサイドな思念が、現実世界の現象に反映されただけと言えるだろう。

いくら政治で理想的な人物を選んでも、我々が成長していなければ、幸せな生活を送ることはできないのだろう。

我々が愛を忘れエゴイズムを追及し、人生に学ぶことを忘れ無知であり続ければ、これからもメディアには扇動されまくるだろうし、様々な束縛からも脱却できないのだろう。

だからといって悪政を野放しにして良いというわけでは無く、まず我々自身が、愛と知恵を学び、いろんな意味で自立したところから一歩は始まる。
愛と知恵を学び、社会との正しい関わりをするようになり、正しい判断・正しい選択ができるようになっていけば、自ずと社会も変わっていくだろうし、制度も変わっていくのだろう。

現に既に愛と知恵を学びつつあり、真に人間にとっての幸福とは何かを追及しようとしている人々は、様々な扇動には乗らない強い精神を身に着けているだろう。

正しい判断・正しい選択ができるようになることは、ブッダが八正道の一つとして教えているように、人間のあるべき理想の姿でもある。

再確認2012年12月08日

金曜日には久しぶりに大きな地震があった。

もうすぐ選挙を前にして、あの3・11の大震災で学んだこと、我々が変わる、と決めたことを、もう一度思い出せ、という天からのメッセージだったかもしれない。

112012年11月11日

今まで日付と時刻のゾロ目は、何度かチャンスがあったが、なかなか良いタイミングが無くて写真を撮り逃してきた。

今日は、ようやく成功した(笑)。

ちなみにドリーンバーチュー氏の「エンジェルナンバー(実践編)」によれば「11」には以下のようなエンジェルからのメッセージがあるそうな。

「前向きでいてください! あなたが考えていることは、またたくまに現実化していきます。ですから、自分や他人や今の状況についてよいことだけに心を集中し、確実に好ましい結果を手に入れましょう」。

愛の純度100%を目指す2012年11月04日

この地球は愛の惑星と呼ばれる。

それは、シュタイナーも述べていることであるが、我々は地球上で愛を実践できるようになることを目的としているから、ということであるだろう。

中にはマザーテレサのように、存在自体が愛の実践であったような手本となるような人もいた。

勿論地球人全てがマザーテレサとはいかない。

地球人全てがマザーテレサだったら?。

ある意味地球は、その役割を終え次の時代、次の形態へと変貌を遂げていくことになるかもしれない。

幸か不幸か(笑)、まだまだ地球人全てがマザーテレサレベルになるのは、まだまだ先のことのようだ。

しかし僕が思うに、今の日本人の人達は、根本的に愛に溢れている人が、結構いるように感じている。

ただ、その愛の純度が、まだ100%では無いので、時折濁りを見せたりして、醜くなったりしているのだと思う。

であるから、この濁りを無くしていけば、日本人が純度100%の愛を実践できる日は近いと思う。

濁りを無くすには、様々な感情のコントロールをできる修養をすることが必要だ。これは一筋縄ではいかない(笑)。

それほど感情の力は力強く扱い難い。

ただこの扱い難い力を愛に注ぎ込むことができたら、それは大きな進歩となるに違いないだろう。

人間万事塞翁が馬2012年10月28日

「人間万事塞翁が馬(世の吉凶禍福は転変常なく、何が幸で何が不幸か予測しがたいことをいう。:広辞苑)」という、ことわざがあり、僕の好きな言葉でもある。

ここには非常に大事な意味も含まれていると思う。

それは、「吉凶の判断を安易にしないことが大切」ということを示唆しているということだ。

これは精神上非常に重要なことだ。

ブッダが悟りに至る道として説いた八正道というのがある。
それには、正しく見たり、正しく考え、正しく判断したり・・・、といったことが説かれている。
「人間万事塞翁が馬」という言葉を意識することによって、この八正道にも通じていくものがあるのではないか?と思っている。
吉凶禍福に惑わされることなく、物事を冷静に正しく見つめる目を養うことができるのではないだろうか。

つまり「人間万事塞翁が馬」ということわざは、実は悟りに至る初めの道となり得る、ということではないだろうか。

善悪のイメージ2012年10月21日

「善と悪」、というと大抵は「善は+(プラス)で、悪は-(マイナス)」というイメージを抱いているだろう。

だが良く分析していくと、悪にも「+と-」があったりすることがわかる。
これが悪のややこしさでもある。

あるAという悪があり、その対極の意味合いを持つBを、善だと思ったら、実はBも悪だった、などということが悪の世界にはままあり得る。

ちなみに僕の好きな、ルドルフシュタイナーの本でも、「ルシファー」「アーリマン」という対極的な霊的悪の存在について言及しているのを良く見かける。


では善には「+と-」があるのだろうか?。

僕は無いと思っている。

なぜなら、善に進化していくほど、物事は統合され一元化していくので、善になることで、「+と-」という次元自体を超越し一つになる、と思っている。

従って、悪ほど分裂しやすく、それゆえややこしくわかりにくい、とも言えるだろう。
善悪で分けられない複雑な物事をよくよく分析してみると、トーナメント方式の勝敗表のようになったりするかもしれない(笑)。

ある善的意見の逆が明らかに悪、という場合も勿論数多くあるだろう。例えば「窃盗はいけない」というような意見の逆は悪であろう。

ただ物事が複雑化した時に、ある悪的意見の逆が善と考えるよりは、その二つの意見を、難しい言葉で言うと「止揚(しよう)(二つの矛盾する概念を一段高い次元で統一すること)」したところにある意見の方が善に近い、ということも十分あり得るだろう。

物事が混乱した時は、白黒で判断するので無く、止揚して考える、という手法も取り入れていくといいかもしれない。