やはりバランスが大事2013年10月20日

通勤の電車の中で立っていると疲れるもんだ。
周りに変なオッサンがいたりすれば尚更緊張して疲れる(笑)。

変わって今度は、ガラガラの電車の中で、満員電車と同じように立ってみる。
誰もいないので、かなりリラックスした状態だ。

ところがこれが、ものの五分と経たない内に、疲れて眠くなってくる。

これは僕だけかもしれないが、満員電車の方が、長い時間立っていられるのである。
ガラガラの電車では5分くらいしかもたず、あとは座りたくなってしまうのである。

これは体の仕組みを調べるとわかることであるが、要は緊張した状態でアドレナリンが出ることによって、電車の中で立つことに耐え得る体の状態が作り上げられている、ということだ。

緊張していることは、いけないことのようなイメージもあるが、ちょっとした体力を必要とし場面では、ある程度の緊張が必要である。
すなわち、緊張と弛緩のバランスがとれていることが重要なのだと思う。

よくコレステロールで、善玉・悪玉、などという言い方をするが、この言い方も早晩廃れていくのでは無いか?とも思う。
つまり、コレステロールに善玉も悪玉も無く、要は体内で、そのバランスが崩れることがいけない、というところに落ち着くのだと思う。

人なら尚更2013年09月29日

普段電車の車窓や、車の車窓から見る街の景色から受けるイメージと、実際に歩いて巡ってみた街の景色から受けるイメージは、全く違う、と言って良い。

更に歩いて巡った、とある場所と、又別の日に同じ街でも違う通りを巡ったりすると、これもまた受ける印象が、まるで違う。

勿論天気によっても印象が違う。

街も生きている人のようだ。

そうなのである。

街の様々な印象を受けて、街を人のように感ずる。

そう、元来人もその局面によって、別な印象を見せるはずだ。

であるから、ある人が違う面を見せたからといって、驚くことは無いし、どんどん進化しても不思議では無い。

ところが、僕らは人に対して、そしてあらゆるものに対して、固定観念、先入観を抱いてしまいがちだ。

街が生きているなら、人間は尚更生きている(笑)。
これが、正しい、と思い込んでいるものが、ほんの一部分しか見ていなかった、ということは、えてしてありがちなことだろう。

怪我して気づく2013年09月08日

先日右手の親指の先を調理器具で切ってしまった。
もう大分直ってきたが、2~3日は右手が思うように使えなくて、大層不便をした。

親指の先を、ちょっと切っただけなのに、もうそれだけで身体の機能のバランスが崩れ、普段していた簡単な作業が思うように出来ず、全く日常の流れがスムーズにいかなくなる。

健康は確かに大事だ。

親指の機能がちょっと欠けただけで、途端に日常生活に支障をきたす。
つまりは、親指が健常な状態にあるということは、当たり前のように思えるが、実は健常に保つために、様々なバランスが保たれているということだ。
まるで均整のとれた巨大建造物の如く、どこかのパーツが欠けても全体の調和を失う、ということだ。

パーツを失うことで、初めて巨大建造物が如何に素晴らしい均整のもとに構築されていたかがわかるように、人体も怪我などによって、初めて、その奇跡的な構造のバランスの素晴らしさに気づく。

逆に言うと、病気や怪我は一つには、まさに、そうした平凡な日常の中の奇跡に気づくためにある、と言えるのかもしれない。

たまには懐かしい曲を2013年08月25日

最近急に天候が変動したり、電車が事故になったり、なにかと情勢が不安定なこともしばしば起こっているようだ。

一度に、こうした事が起こるのは、その背後に、やはり高次元からの何らかの意図があると考えるのが良いだろう。

高次元からの意図とは、シンプルで心強いものだと、僕は感じている。

すなわち、例えば上記のような出来事であれば、心を平静に保つことに心がけるように、とか、自分の波動を下げないように、とか、そうしたことであるのだろう。

政治なども、どこか安定せず、最近は特に、国民を騙しきれずに、どんどんほころびが出てきているようにも見え、これから益々不安定になるかもしれない。

しかし僕らは、それに安易に同調せず、虚偽を見抜く目を養い、しかし愛を持って出来ることをするように心がけることが大切だろう。

心身をリラックスするには、いろいろなことがあると思うが、たまに自分にとって懐かしい曲をダウンロードなどして聴いたりすると、ハッと忘れていたことを思い出して、元気が出てくることがあるのでいいかもしれない。

今こそ振り返って2013年08月04日

東日本大震災は、僕らに様々な教訓を残してくれた。

僕自身もいろいろと学んだが、中でも深く心に刻まれたのは「エゴイズムをコントロール(抑制では無い)することの大切さ」だった。

その時読んでいたシュタイナーのいくつかの著作(「シュタイナーの死者の書」等)にも、偶然エゴイズムについて書かれていた個所があり、何かの啓示というように感じた。

あれから2年以上経つが、福島原発などは未だ収束せず、問題も更に広がっているようだ。

だからというわけでもないが、やはりあの震災を風化してはいけないと感じている。

勿論過ぎ去ったことを後悔せず、新しい希望を見出すことも大切であるが、その一方で、あの時学んだことを風化させずに、学んでしっかり自分の身になったか、もう一度しっかり確認することも大事だと思う。
忌まわしい出来事でも、それが風化して無意味なものになるのでは無く、十分意義のあったものであったかどうか、というようになるのは、僕らの学び方如何であるから、今一度振り返ってみるのもいいのではないかと思う。

プレッシャーはベンチプレス2013年06月09日

スポーツジムにはベンチプレスやプールがある。
これらによって筋肉に負荷をかけることによって筋肉が発達する。

この地上世界にも同じようなものがある。

それがプレッシャーとか妨害、或いはネガティブといわれる出来事である。

プレッシャーとか妨害が魂に負荷をかけることによって、魂は発達する。

であるから地上にプレッシャーとか妨害が存在するのは、ある意味当然なのだと思う。

筋肉を鍛えようと思った時、スポーツジムでランニングマシンをしながら「なぜ走らなくてはいけないんだ?」とはあまり思わないだろう。

ならばプレッシャーとか妨害が魂に負荷をかけることによって、魂は発達する、とわかっているなら、この地上にあるプレッシャーとか妨害に対して拒否感などを抱くことは、いわば無意味なことだということが徐々にわかってくる。

本当の僕ら、すなわち高次元の意識と通じている僕らの魂は、プレッシャーとか妨害とかの無い世界が良いのだったら、たぶん、わざわざこの地上世界には生まれてこようとはしなかっただろう。

なぜなら魂を強化したがっていただろうから。

この地上世界は、ある意味プレッシャーとか妨害の宝庫だ(笑)。

その地上世界だからこそできる、学びだとか自己実現だとか奉仕だとか、そうしたことがあるはずだ。

それがどんなものかは、個々それぞれに使命としてもっているだろう。

それが何か?探し出して実行すること自体も、人生の意味の一つであり、面白いところであるのかもしれない。

良い日、が変わってきた2013年05月18日

一日が終わり夜寝るときなどに、その日を振り返って良い日だったか?悪い日だったのか?、と自分に問うことがある。

以前だったら、「良い日」とは、「いいことがあった日」、で「悪い日」とは「悪いことがあった日」という認識をしていた。

ここ最近僕は、この認識を変えていくようにした。

例えば仕事でトラブルがあり、早く帰るつもりが遅くなってしまった日があるとする。
こういう日は今までは「悪い日」であった。

しかし今は、こんな日は「誰かが困っている時に、それをサポートしてあげることができた。だから良いことをした。人として良い行いをした日だった。従って良い日だった」・・・などと考えるようにしている。

すなわち、その日に「何か良いことがあったか?」という観点では無く、「人として良い行いをしたか?」が「良い日」であることの最大のポイントとなる。

逆に言うと、「悪い日」というのは「悪いことがあった日」では無く「人として悪い行いをしたか?」、というのが「悪い日」になる。

ただし、何が良くて何が悪いか、などというのは人それぞれ価値観が違うので、あくまでも、僕基準の良し悪しでしかない、という弱みはある(笑)。

霊的とは2013年04月21日

霊的であるとは、どういうことなのか?
度々考えてみることがある。

ある種の人々のように、所謂霊界と直接コンタクトできる、ということも、勿論その要素ではあるだろう。

しかしほとんどの人類は現段階では、その能力を持ち合わせていない。

では、ほとんどの人間は霊的にはなれないのだろうか?。

そういうことでは無い、と僕は思っている。

普通の人間は様々な事柄に対する認識の仕方を変えていくことが、次第に霊的になることに繋がっていくのでは無いかと思っている。

例えばこんなことがある。
チームで仕事をした時に、一人ドンくさい人物がいて、その人物が失敗ばかり繰り返したり、チームに為にならないことばかりしでかす。
その為周りの人間は迷惑を蒙り、引いては会社に損失を与え、その仕事は失敗したりする。
まるで疫病神のようである。

ビジネス的な生産性・合理性、人間的な関わり、などから見たら、そのドンくさい人物の存在はマイナスでしか無いだろう。

しかし、こういうことも言えることが後々わかってくることもあり得る。
物質的なことや人間関係で損失しかもたらさなかった、その人物が実は、魂の成長を促す経験、という非常に貴重なものをもたらしていたことが、ずっと後になってわかる。

魂にとっては、その人物を通じて得た過酷な試練が、実は非常に良い経験だったことがわかる。

このような出来事を経ることによって、あることがわかってくる。

つまりは、ビジネス的な生産性・合理性、表面的な人間関係よりも大事なものがあり、そしてそれを育むずっと心魂に残る経験というものがあり、ドンくさい人物の存在は実は、その経験をもたらすことが目的だったのではないか?と思えてくる。
そこに我々は物質世界だけでは計り知れない何かを感じていることがわかる。
まるでシナリオをわかっている存在がいて、魂の経験のドラマを我々にもたらしていたのではないか?とすら思えてくる。

それは言葉にするのは難しいが強いて言えば、それが「高次世界の意志」とでも言うべきものであろう。

そして、この「高次世界の意志」に気づくこと、こそ、他でも無い、霊的、と言えることなのではないか?。
すなわち「高次世界」=霊界、であり、「高次世界の意志」に気づくことは、霊界の意志と繋がることを意味する。

・・・と、そのように今は考えているのである。

しかしながら、だからといって、ドンくさい人物を呼び込んで、物事を失敗させてばっかりで良い、ということでは無い。
勿論ドンくさい人物を、そのままにしておいていいというわけでも無い。

ただ「高次世界の意志」に気づいたら、物事に対しての取り得る態度などは自ずと以前とは変わってくることだろう。

先憂後楽2013年03月10日

先憂後楽、という言葉があるそうだ。
「先憂後楽:天下の安危について真っ先に憂え、楽しむのは人より後にすること。政治家の心構えを説いた語。(広辞苑)」

今の政治家には、特に心してもらいたい言葉だ(笑)。

僕はこの言葉を、自分の人生にも当てはめたい。

すなわち、辛いことは先に体験し、楽しみは後で体験、ということだ。

辛いことや憂鬱を先に経験したのは、後の楽しみの為だったと、そう考えれば、辛いことを克服するエネルギーにも成り得ると言えるのではないだろうか。

人それぞれとは思うが、僕は先楽後憂より、絶対に先憂後楽の方が良い。

だから、スピリチュアルで良く言われる「楽しいことだけをする」というのは、諸手を挙げて賛成はできない。
「楽しいことだけをする」と先楽後憂になってしまうのではないか?と心配してしまう(笑)。

運命や外的な事象は、楽しいことばかり選択できるとは限らない。
でも心は常に自由だ。

つまり常に「楽しいことだけ」でありたいのは「心」の方だと思う。
「心」は常に楽しくて良いと思う。
辛い時でも楽しい波長を維持できたら、どんなに強くあれるか、と思う。
心が常に楽しければ、それで、もうかなりの進化だと思う。

思考を磨く2013年02月17日

スピリチュアル系の書物などでは、良く「直観に従え」というようなことが書かれている。

頭で考えること、すなわち「思考」よりも直観が正しいと言われているからだろう。

ここからは、全く僕独自の理論であることをお詫びしたいのであるが、僕はこれからは我々は、その「思考」を鍛えるべき時代なのだと思う。

「鍛える」もっと言えば「純化して直観に近づける」ということになる。

今我々は「思考」が未熟なので「直観」に従うしか無い。

思考を純化し、直観に近づけ、更に、思考と行動を一致させる。
そうすると、直観・思考・行動が一体化する。
これが理想の姿ではないか?、と僕は思う。

但し、思考を直観と同じようにするには、様々な体験をし、失敗を繰り返し、思考を純化していくしかない。
考えに考えて失敗し、「あの時、直観ではこうしろと言っていたのに・・・」というのを繰り返していけば、いつしか、直観と思考はそれほど狂いが無くなるのではないだろうか?。
逆に言うと「失敗」とは思考を磨く為にあるのではないか?とも思う。

であるから、失敗したら、益々直観に近づいている、と思えばいいのだろう。