宴もタッチパネルで2011年10月02日

最近久しぶりに二度ほど大衆居酒屋へ行く機会があった。
二カ所とも注文にタッチパネルを導入した居酒屋で、時代の移り変わりに感慨深い思いをした。

僕は個人的に、このシステムは結構気に入った。
混んでる状況の居酒屋で注文をする時に、忙しそうな店員を呼び止めるのは、ちょっとしたストレスになる。
よくある呼び鈴も、押したのに、来るか来ないかわからない店員を待つストレスがある。

タッチパネルは、少なくとも、そこのストレスは解消してくれる。

居酒屋以外でも、このシステムは結構普及するかもしれんな、と思った。

楽しむ2011年10月08日

スポーツ選手などが、緊張した状況やプレッシャーのかかる状況を「楽しみたい」というようなことを良く言うのを聞く。

以前はこの言い回しを聞くと、”負け惜しみじゃねえか”とか”負けた時の言い訳か”などと、ややイラッとしつつ思っていたものだった(笑)。

でも最近は、やはり人生のあらゆる局面において、例えそれが辛いことであっても「楽しむ」ことができるようになることを、理想とすべきだ、と思うようになってきた。

僕は社会人になって初めてスキーを始めたクチなので、それほど得意とはしないが、スキーにおいて一番勉強になった点があり、スキーが人生の象徴のように思えたことがある。
それは、スキーの上級者になればなるほど、コブの多いような急で荒い斜面を好んで滑るようになる、ということだ。
ともすれば、なだらかで平坦な斜面では物足りない、などと思うようになったりする。

人生も同じように、人間が進化するにつれ、荒いコブ斜面を華麗に滑るが如く、人生の荒波を楽しみながら生きていけるようになる、最近はそう思えるようになってきた。

勿論進化しないウチは、スキーの初心者と同じように、コブなどとんでもないモノに思えるだろう。
しかし人生経験を積み、進化しあらゆる局面で人生のドライビングが上達してくるにつれ、意識も変化し、人生のコブを余裕を持って迎えられるようになるのだと思う。

かつて「プレッシャーを楽しむ」というような言い回しに、カチンときてしまったのは、やはり僕の中に、何かまだ解消されていないトラウマというか未解決の悪感情が残っていたからなのだと思う。

そうしたものが浄化・整理されてくると、自ずと人生のあらゆることが、楽しめる心的境地に達することができるのだと思う。

不正解の道2011年10月16日

普通ならば人間、正解の道を行きたいもんだ。
だから不正解の道を進まないよう、非常なエネルギーを注ぐ。

ただ時に、不正解の道を歩まざるを得ないこともある。

不正解の道を歩くのは辛いことだ。
でも不正解の道を、それが正解で無いことを十分に確認する為の道行きも、それはそれで大切な経験なのではないか?と思い始めた。
その道を歩んだことで、正解の道行きが、いかに素晴らしい道かがわかる。

だから、できれば不正解の道行きも楽しめたら人生最高になるんだな、と思う。
だから今行っている道行きが、途中で不正解な道行きだと気づいても、怒らないことにした(笑)。
もしかしたら、不正解の道行きを行くこと自体が、全体から見れば正解なのかもしれないし。

カウチンセーター2011年10月23日

昨年丸の内のビームスで、カナダ製のカウチンセーターという手編みの厚手のセーターをショーウインドで見つけた。
服に一目惚れする、というのは滅多に無かったが、まさに一目惚れ、という感じで、ずっと欲しいなと思っていた。
結局昨年、貯金をくずしてまでして購入した。それくらいお気に入りの服となった。

実はこのカウチンセーターのタイプのやつは、高校時代から欲しかった。
結局当時は、本物を入手するという贅沢はできなかったが、母が、まがいものの安い、カウチンスタイルのカーデガンを買ってくれて、まあそれはそれで有り難かったので、当時はそれで我慢した(笑)。
ちなみに、このもどきカウチンスタイルカーデガンは、まだ持っている。実に30年くらい着ていることになる。

それから以降途中服の嗜好も変わったりして、しばらくカウチンセーターのことは忘れていたが、昨年ビームスで見つけて、忘れていた情熱が見事に蘇った(笑)。

こうして遂に30年来の念願の本物カウチンセーターを入手できたのであるが、1着だとクリーニングに出した時など、しばらく着られない期間が出来てしまうので、もう1着欲しいな、と思っていた。

カウチンセーターといっても、色や柄がいろいろあって、僕は出来ればベースは白かホワイト系にしたかった。
本当現代は便利になったと思うのであるが、ネットで検索したらイイのが又見つかった。
しかもである。
今は円高でいろいろ大変な時期ではあるが、こんな時は、円高の恩恵であろうか、思い通りのカウチンセーターが、なんと1万円台で売っていた。
昨年買ったのは3万円台だったので、まあ相場であるが、1万円台は、さすがに安い。
即決だった(笑)。

こうして今年はWカウチンセーター体制が整った。
まだ着る時期では無いが、毎晩部屋に飾って悦に入っている(笑)。

カウチンセーターは、非常に長持ちするらしく、何十年も着られるらしい。
先代の、もどきカウチンスタイルカーデガン(笑)同様、30年以上は着こなせたらイイなと思っている。

ハーモニー2011年10月28日

ドレミファソラシ・・・の中から例えば、ド・ミ・ソの3つを取り出して、同時に鳴らすと、明るく綺麗な和音ができる。
いわゆるCコードと呼ばれる和音で、綺麗にハーモニー(調和)しているのがわかる。
ド・ミ・ソはお互いに調和した関係にあると言われている。

今度はドとシだけ取り出して同時に鳴らすと、こちらは残念ながら不協和音になってしまう。
非常に耳障りな音である。
ドとシはピアノなんかではお互い隣同士なのに、不協和の関係なのだ(笑)。

ところが、今度ド・ミ・ソにシを足して、ド・ミ・ソ・シで同時に鳴らしてみる。
すると、どうだろう。
さっきのCとは違う、もっと色彩が加わったような、甘美で幻想的なハーモニーが鳴らされるのがわかる。
いわゆるCmaj7(Cメジャーセブンス)というコードになる。

ちなみにこのmaj7(メジャーセブンス)というコードは、例えば小田さん(小田和正)などが大好きで、昔オフコースの曲などではかなり多用されていた。
平井堅の「瞳を閉じて」のサビの”瞳を閉じて〜♪”の「瞳を」の部分などは、Abmaj7(Aフラットメジャーセブンス)だ(多分、笑)。

不調和とされていた組み合わせが、他の組み合わせと融合した時に、全体として調和して聞こえてくるのである。
これが音楽の深いところである。

ある局面では悪・欠点・不具合と思われていたものが、はまった場所を得ることによって、調和する。
和音というものの調和が、何か人生の深みを示唆しているように思えてならない。

切り離せないもの2011年10月30日

最近改めて思うが、音楽が好きでヨカッタと思う。
音楽が好きなことによって、いつも音楽に対する憧憬が潜在意識の中に植え付けられてきたと思う。

そしてその憧憬が、いつしか目には見えないが、高尚な高次の意識とでもいおうか、イイ意味でのある種の宗教的な倫理観への憧憬というものに形を変えていたように思う。
それが俗っぽいものとは対極にある何かに、いつも導いてくれていたような気がする。

いろんな局面で、自分の心が荒んだ時に、ある種の音楽を聴くことで、心が癒され、低次の感情渦巻く世界から離れ、高次の世界へと希求する心情が蘇ってくる、という経験を今までも多くした。

結局それがベースとなり、スピリチュアルな世界への探求心を一層大きくしたのだと感じている。

つまり僕のスピリチュアルな世界への憧憬と、音楽とは切っても切り離せないものだといえる。