僕の運というよりは2014年06月01日

モテナイ独身中年あるある、になってしまうかもしれないが、モテナイ独身中年にとっては、スーパーのレジなどは、是非とも女性であってほしい。
僕などは、全世界のレジ全て女性でもいいとすら思っている(笑)。

理由は比較的単純で、要は独身中年として買ったものを男性に触られたくない、というのがある。
良く潔癖症のヒドすぎる人で、買ったものを帰ってきてから洗う、などというのを聞いたりするが、僕はあそこまでひどくは無いが、気持ちは良くわかる。
僕の場合、日常の消耗品や食料、つまりすぐ消えてしまうものを男性に触られるのは、まああまり気にならない。
下着や大切な本やCD等、つまり永く家で愛用するものを、男性に触られるのが、あまり好きではない。ただでさへ女っ気が無く男性臭にウンザリしているところに、もうこれ以上男性気を取り込みたくない、というのが本音だ(笑)。

まあ全く嫌、というわけではないが、後で、「この本、あの綺麗なネエチャンのレジだったな」というのと「この本、あのアンちゃんのレジかよ」というのでは、その本のその後の扱いにかなりのテンション差が出ることは否めない(笑)。

そんな今日この頃、とある書店に行き、レジに並んだ。
レジは5つあり、4つはオネエチャンレジ、1台がオッサンレジだった。

レジへの並びの順番が僕の前にあと一人、まで来た。
僕の前に並んでいるのは髪を茶髪に染めた赤いトレーナーのオバサンだった。

レジは2台ほどが、もう金銭のやりとりをしていて空きそうだ。
しかしその内の一つが、なんとオッサンレジだ(笑)。

オネエチャンレジが空いてしまうと、必然的に僕はオッサンレジになる。
しかもオネエチャンレジの方が今にも空きそうだ。
確率五分の一なのに、オレが又オッサンレジかーっ!(泣)。
まあ、こんな少ない確率なのにオッサンに当たる現象は、今までくさるほど良くあった現象なので、今更ここでもう落胆はしない(泣笑)・・・

などと思っていたところへ、なんとオッサンレジの方が先に空いた。
オネエチャンレジでは、まさかの「奇跡的モタモタ現象」が発生し、客との事後のやりとりで何やらモタモタしている。

しかし、せっかくオッサンレジが空いたのに、前のオバサンはなかなかレジに進もうとしない。
こういう時、オバサンは真っ先にレジに進むのになあ、と思っていると、そのオバサンは、あまつさへ、モタモタオネエチャンレジの方へ行こうとすら見える。
「なんだよ、オッサンレジ空いてるの見えねえのかよ、よっぽど周りが見えねえのかな」と思いつつ、ふとオバサンを見ると、その時周りを伺っていた、オバサンの顔が見えた。

そして僕は驚いた。

「オバサンじゃねえ!、アンちゃんだっ!」

髪が長かったのと小太りな感じで、てっきり女性とばかり思っていたのが、男性、それもいかにもオタクな感じの男性だったのである。

ここで僕は、この前に並んでいるアンちゃんのモタモタ感の理由を瞬時に把握した。
そしてなかなかレジに行かないイライラと共に、複雑な感情も湧き上がってきた。

なぜなら、このアンちゃんの気持ちは痛いほどわかるからである(笑)。

アンちゃんはおそらく独身で「オネエチャンレジに行きたい、もう確実に大丈夫!」、と思っていたのだろう、それが直前にきての、まさかのモタモタ、そして悪夢のオッサンレジ解放・・・。
僕も、今まで「この手の裏切り」は数えきれないほど喰らってきたので気持ちはよーくわかる(笑)。

しかし無情にも残酷な宣託が下される。
「先頭でお待ちのお客様ドーゾー」なかなかやって来ないアンちゃんに、業を煮やした手招きのレジのオッサンの低い声が店内に響く。

アンちゃんは重い足取りで絞首台に向かうが如く、オッサンレジに向かった。

アンちゃんには申し訳ないと思ったが、これで僕のオネエチャンレジは安泰だ、などと思っていたら、なんと急に今まで閉鎖していた特別カウンターみたいな所にある6台目のレジが解放され、そちらのオネエチャン、しかも他のレジよりもカワイイオネエチャンが、僕を呼んでくれた(笑)。

僕自身に関して言えば、今日はラッキーデイで何も心配することは無かったようだ(笑)。

しかし、可能性のことを言えば、先程のアンちゃんが待っている時点で、6台目のオネエチャンレジが解放されても良かった、ということもある。
そうなったら、僕がオッサンレジになっていただろう。

今日のノリを考えれば、結果的には僕はオネエチャンレジになって、結局僕はラッキーだったかもしれない。

しかし6台あって5台がオネエチャンだから、オネエチャンに当たったところで、それほどラッキーとも言えないのではないか?。

そしてふと、こうも思った。
僕がラッキーというよりは、あのアンちゃんに、ツキが無かったのではなかろうか?

老いの中の美2014年06月08日

自分の親が老いていく姿を見るのは、普通は辛く哀しいものだ。
特に病気をし、日毎に身体の様子も変化していくのであれば、尚更だろう。

しかしそれは、僕らが物質的側面のみに焦点を置いているから、哀しみが出てくるのだろう。

人間とは、心・魂・そして身体も含めた総体を言うのであれば、老いる、ということは、成熟、すなわち、今世の人間の人生の総決算でもあるだろう。

であれば、老いることの中に、心の成長、魂の成熟、が見られるのであれば、実は老いの中に、人間の美しさ、を見ることもできるのかもしれない・・・。

上記のようなことを、僕がいつも拝見させていただいているある方のブログの記事を読み、ハッと気づかされた。

僕自身も親の病気により同じような境遇を体験しているが、親の老いの中に哀しみしか見いだせていなかった自分がいた。
しかし、老いる、というのは、人間の本来が魂や心であれば、哀しみだけでは無い、もっと肯定的な側面を持つものである、ということに今更ながら気づかされた。

老いを、劣化、と見てしまうのは物質的側面のみを見ているからであって、魂から見れば「成熟」になる。

シュタイナーの本に載っていたエピソードを、思い出したが、キリストが道を歩いていると、腐った犬の死体があり、人々はそれを見て口々に嫌悪を表し忌み嫌った。しかしキリストだけは、犬の歯並びが美しい、と言ってその犬を褒めたそうだ。
これはどんなことでもその中に長所を見つけることの大切さのエピソードとして出てきた話であるが、キリストは、死体、という物質体のみならず、もっと大きなものも含めて見えていたのだろう。

山けんさんのブログ
http://ameblo.jp/yamamotokenta/
http://ameblo.jp/yamamotokenta/entry-11873380068.html

修業から調和へ2014年06月15日

以前は人生というものは、理不尽で辛く、そこで忍耐力を養うという修業をする為にあるのだ、という風に思っていた。

これは、ある局面では正しい見方なのかもしれない。
でも今は、もっと別な考え方をするようになった。

人生が理不尽かどうかは、自分が決めているのだ、と。
自分の中の潜在意識、もっと言うと、魂と呼べるものなのかもしれないが、そうした内奥の自分、というものが、周りの世の中の在り方を決めているのだ、と。

すなわち自分が、世の中は理不尽だ、と思えば、その通りに展開していくし、そうでない、と思えば、そうでなく展開していく。

そして、理不尽かどうかは、自分の魂が、自分の成長度合いに応じて、「今は世の中を理不尽だと思い過ごす時代を経るべきだ」と判断して、理不尽にしている、と。

僕は、人間は最終的には世の中と調和していくべきだと思っている。
ただ、その途上で調和に至るまでの調整の時代、すなわち世の理不尽と戦う時代、も経ていかなければならない、とも思っている。

宇宙の仕組みとして、自分の心の中を周りの世界が反映する、というのがある。
周りの世界の理不尽は、すなわち自分の心の中の歪み、理不尽、でもあるのである。
それを矯正していく時代、というのは必要な時があるだろう。

只厳密に言うと、世の中に理不尽というのは無い、と思っている。
世の出来事には、一見理不尽に見えても、全てそれなりの理由がある。
おそらく、その全てを知ることができれば、人はお互いに憎しむことなく、お互いを赦すこともできるのだろう。
理不尽、と感じるのは、我々が、そのことについての情報を全て知らされていない為に起こるのだろう。

しかしながら実際は、その全てを知らされることは無い。少なくともこの物質世界に生を受けている間は無い。

全てを知ることによって、その全てを知った、という条件付きで人は他を赦すことができるだろう。
しかし条件付きの赦しなら、誰にでもできるだろう。
我々に要求されているのは、もっと高度な、無条件の赦し、無条件の愛、というものだ。

太陽は、地球の善悪に係らず、いつも無条件で地球に光を供給してくれる。
我々は最終的に、あの太陽のように、無条件に世の中に光を供給する存在になることを、内奥で目指しているのだろう。
条件によって、光が出たり出なかったりする不安定な状態では無く、常に光を届ける存在になることを僕らは内奥で望んでいるのだろう。

おそらくであるが、「全てを知ってから無条件に愛す」のでは無く、「無条件に愛した時に全てがわかる」のだとも思う。

ともあれ理不尽な世の中に疲れ切った時は、「世の中は実は素晴らしい」と思い始めてみるのも良いだろう。

まゆゆ喪失2014年06月22日

6月7日にはAKBの選抜総選挙があり、まゆゆこと渡辺麻友が史上最多の159854票を獲得し悲願の1位になった。

僕もこの模様はフジの放送をDVDに保存用録画して見た。

お恥ずかしい告白をすると、50過ぎたオッサンが大変恥ずかしいのであるが、昨年、そして今年と、僕はこの、まゆゆに一票を投じた。すなわち、まゆゆの女王獲得は僕の悲願でもあったわけだ(笑)。

ただ、この際もっとお恥ずかしいことを言うと、まゆゆだけに票を投じているわけではないので、いわゆる「まゆゆ推し」ということは本当のAKB、本当のまゆゆファンの方々に対しても申し訳なくて言えないので、一応カテゴリーとしては、僕は「ハコ押し」というのになるのだろう(笑)。

しかしながら、まゆゆの持っている久しぶりに見た「ザ・アイドル感」(これはキョンキョン以来、あるいはもっと遡って天地真理とか、顔というか眼だけを言えば、キャンディーズの亡くなったスーちゃんに似ている、つまりはそうした人達が持っていたキラキラ感とでもいうべきもの)を保護する為に、せめて一度でもいいからAKBのトップになってもらって箔をつけさせてやりたい、と常日頃思っていた。

昨年は指原莉乃が1位だった。指原は卓越したバラエティー力、マイナスをプラスに変える能力があり、それはAKBの中でも群を抜いていて、あと「笑っていいとも」でもずっとレギュラーだったので、僕も親しみがあり好きなメンバーの一人でもあり、指原のトップも見てみたいとも思っていた。

しかし僕の中では、指原はローリングストーンズもしくはベートーベンで、まゆゆはビートルズもしくはモーツアルトであり(わかりにくい比喩にて失礼(笑))、今年はやはり、まゆゆに獲らせたかったので、今回の結果は満足のいくものであり、僕自身も、1/159854になれて本当に良かった(笑)、などと思っていた。

それで総選挙後数日は、そのDVDを帰宅後などに何度も繰り返し、まゆゆの場面を見つつ関根さん(勤)の「まゆゆは美しい」というコメントに、「確かに」と何度も頷きながら、他にも川栄の涙の復活の場面や、今年は多少減った由依はんの過呼吸、ぱるるのあっけらかんとした挨拶、コジハルの「しませーん!」ジョークなども、見つつ癒されていた。

ところが、である。

この録画したDVDが、ある日突然、レコーダーに入れても何にも認識されなくなってしまった!。
家にはPCとポータブルDVDも加え3台のDVDの見られる機械があるが、その全てで認識されず、家ではもうAKB総選挙の映像を見ることができなくなってしまった。

この手のハードウエアトラブルは今までに何度もあったし、その度に苦笑しつつ諦めてきたのであるが、今回は大切な「まゆゆ初の1位DVD」だったので、その喪失感たるや尋常ではなかった。まるで失恋してしまったかのようであった(笑)。

現代はいろいろ発達して便利になったので、YouTube等で、この総選挙の映像は容易に見ることはできる。

しかし、YouTubeの映像では我慢ならず、そしていつしか、このDVD、という物質、にとても執着し依存してしまっている自分がいるのを発見した。

電気系の機械のトラブルは、スピリチュアル系の俗説では、よく霊的なものが関与している、などと言われることがある。
ここにきて何らかの霊的なものが、僕に対して何かメッセージを伝えようとしてきたのかもしれない。

物事にはいつでも何等かの理由がある。
すなわち今回この「まゆゆ初の1位DVD」を喪失してしまったことは、僕にとって、何かの啓示だった、と言えるのかもしれないな、と今は思って納得しようとしている。
それは、いい歳こいてアイドルや、或いは物に依存するな、という警告的なことかもしれないし、或いはもっと他の肯定的な何か、何か良いことの前兆とか(まあ例えば新しい恋の出現とか(笑))、かもしれない、と今は思って納得しようとしている(笑)。

といいつつも、このDVDを時々レコーダーにかけてみては、「突然復活しねえかな」と淡い期待と未練が未だ抜けきらない今日この頃なのであった(笑)。

陰と芸術2014年06月29日

東京は梅雨真っ只中である。
基本的に雨の日は、太陽の光を浴びられない為、何となく好きになれないという人も多いだろう。

僕自身も、あまり好きでは無いが、過去人生を振り返ってみると、雨が好きな時代もあった。

それは中学生時代で、理由は全く単純で、雨が降ると部活が休みになる、からだった。
部活は野球部で、元来運動が苦手な僕は、しょっちゅう雨を願っていた(笑)。

高校時代は、そうした部活の縛りは無くなったが、良く考えてみると、学校まで6km位の距離を、雨の日は合羽を着て自転車で通っていた。当時は何も考えていなかったからか、さほど苦になった記憶が無いのであるが、今は、もうそんな無茶できそうもない(笑)。

大学時代は新聞配達のバイトをしていたので、雨雪風は、もう大敵、勿論雨は再び僕の敵となった(笑)。

あの頃から現在まで、雨が苦手、というのを潜在的な感じで引きずっているような感じだ。

ところで、雨の歌には名曲が多いと言われている。
昔の洋楽などでも「雨にぬれても」「雨に微笑みを」とか、稀代の名曲が出てくる。

ここでふと「だからか・・・」とも思う。
つまり、雨が皆苦手だから、逆に一所懸命美化するに至って名曲が生まれてくるのかもな、ということだ。
雨が好ましいものであれば、これだけ歌にはならなかったかもしれない。

じゃあ太陽の歌で名曲は、となるとビートルズの「Here comes the sun」とか、チューブの「シーズンインザサン」とか、まあそこそこ出てくる。

ただ、上に挙げた2曲は、前者は「太陽がやっと出てきた」後者は「夏よ(太陽)いかないでくれ」と、どちらも太陽が無い状態を相対的潜在的なモチーフに使用している。
つまり、雨=陰あっての太陽=陽、という図式が見えてくる。

もしかしたら、陰の状態の方がそれを芸術化しやすいのではないか?、という結論に至るのである。
もう一つ、芸術の一つの役割として、陰を陽に転ずる、ということがあるのではないか?、という推測も出てくる。