修業から調和へ2014年06月15日

以前は人生というものは、理不尽で辛く、そこで忍耐力を養うという修業をする為にあるのだ、という風に思っていた。

これは、ある局面では正しい見方なのかもしれない。
でも今は、もっと別な考え方をするようになった。

人生が理不尽かどうかは、自分が決めているのだ、と。
自分の中の潜在意識、もっと言うと、魂と呼べるものなのかもしれないが、そうした内奥の自分、というものが、周りの世の中の在り方を決めているのだ、と。

すなわち自分が、世の中は理不尽だ、と思えば、その通りに展開していくし、そうでない、と思えば、そうでなく展開していく。

そして、理不尽かどうかは、自分の魂が、自分の成長度合いに応じて、「今は世の中を理不尽だと思い過ごす時代を経るべきだ」と判断して、理不尽にしている、と。

僕は、人間は最終的には世の中と調和していくべきだと思っている。
ただ、その途上で調和に至るまでの調整の時代、すなわち世の理不尽と戦う時代、も経ていかなければならない、とも思っている。

宇宙の仕組みとして、自分の心の中を周りの世界が反映する、というのがある。
周りの世界の理不尽は、すなわち自分の心の中の歪み、理不尽、でもあるのである。
それを矯正していく時代、というのは必要な時があるだろう。

只厳密に言うと、世の中に理不尽というのは無い、と思っている。
世の出来事には、一見理不尽に見えても、全てそれなりの理由がある。
おそらく、その全てを知ることができれば、人はお互いに憎しむことなく、お互いを赦すこともできるのだろう。
理不尽、と感じるのは、我々が、そのことについての情報を全て知らされていない為に起こるのだろう。

しかしながら実際は、その全てを知らされることは無い。少なくともこの物質世界に生を受けている間は無い。

全てを知ることによって、その全てを知った、という条件付きで人は他を赦すことができるだろう。
しかし条件付きの赦しなら、誰にでもできるだろう。
我々に要求されているのは、もっと高度な、無条件の赦し、無条件の愛、というものだ。

太陽は、地球の善悪に係らず、いつも無条件で地球に光を供給してくれる。
我々は最終的に、あの太陽のように、無条件に世の中に光を供給する存在になることを、内奥で目指しているのだろう。
条件によって、光が出たり出なかったりする不安定な状態では無く、常に光を届ける存在になることを僕らは内奥で望んでいるのだろう。

おそらくであるが、「全てを知ってから無条件に愛す」のでは無く、「無条件に愛した時に全てがわかる」のだとも思う。

ともあれ理不尽な世の中に疲れ切った時は、「世の中は実は素晴らしい」と思い始めてみるのも良いだろう。

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