まゆゆ喪失2014年06月22日

6月7日にはAKBの選抜総選挙があり、まゆゆこと渡辺麻友が史上最多の159854票を獲得し悲願の1位になった。

僕もこの模様はフジの放送をDVDに保存用録画して見た。

お恥ずかしい告白をすると、50過ぎたオッサンが大変恥ずかしいのであるが、昨年、そして今年と、僕はこの、まゆゆに一票を投じた。すなわち、まゆゆの女王獲得は僕の悲願でもあったわけだ(笑)。

ただ、この際もっとお恥ずかしいことを言うと、まゆゆだけに票を投じているわけではないので、いわゆる「まゆゆ推し」ということは本当のAKB、本当のまゆゆファンの方々に対しても申し訳なくて言えないので、一応カテゴリーとしては、僕は「ハコ押し」というのになるのだろう(笑)。

しかしながら、まゆゆの持っている久しぶりに見た「ザ・アイドル感」(これはキョンキョン以来、あるいはもっと遡って天地真理とか、顔というか眼だけを言えば、キャンディーズの亡くなったスーちゃんに似ている、つまりはそうした人達が持っていたキラキラ感とでもいうべきもの)を保護する為に、せめて一度でもいいからAKBのトップになってもらって箔をつけさせてやりたい、と常日頃思っていた。

昨年は指原莉乃が1位だった。指原は卓越したバラエティー力、マイナスをプラスに変える能力があり、それはAKBの中でも群を抜いていて、あと「笑っていいとも」でもずっとレギュラーだったので、僕も親しみがあり好きなメンバーの一人でもあり、指原のトップも見てみたいとも思っていた。

しかし僕の中では、指原はローリングストーンズもしくはベートーベンで、まゆゆはビートルズもしくはモーツアルトであり(わかりにくい比喩にて失礼(笑))、今年はやはり、まゆゆに獲らせたかったので、今回の結果は満足のいくものであり、僕自身も、1/159854になれて本当に良かった(笑)、などと思っていた。

それで総選挙後数日は、そのDVDを帰宅後などに何度も繰り返し、まゆゆの場面を見つつ関根さん(勤)の「まゆゆは美しい」というコメントに、「確かに」と何度も頷きながら、他にも川栄の涙の復活の場面や、今年は多少減った由依はんの過呼吸、ぱるるのあっけらかんとした挨拶、コジハルの「しませーん!」ジョークなども、見つつ癒されていた。

ところが、である。

この録画したDVDが、ある日突然、レコーダーに入れても何にも認識されなくなってしまった!。
家にはPCとポータブルDVDも加え3台のDVDの見られる機械があるが、その全てで認識されず、家ではもうAKB総選挙の映像を見ることができなくなってしまった。

この手のハードウエアトラブルは今までに何度もあったし、その度に苦笑しつつ諦めてきたのであるが、今回は大切な「まゆゆ初の1位DVD」だったので、その喪失感たるや尋常ではなかった。まるで失恋してしまったかのようであった(笑)。

現代はいろいろ発達して便利になったので、YouTube等で、この総選挙の映像は容易に見ることはできる。

しかし、YouTubeの映像では我慢ならず、そしていつしか、このDVD、という物質、にとても執着し依存してしまっている自分がいるのを発見した。

電気系の機械のトラブルは、スピリチュアル系の俗説では、よく霊的なものが関与している、などと言われることがある。
ここにきて何らかの霊的なものが、僕に対して何かメッセージを伝えようとしてきたのかもしれない。

物事にはいつでも何等かの理由がある。
すなわち今回この「まゆゆ初の1位DVD」を喪失してしまったことは、僕にとって、何かの啓示だった、と言えるのかもしれないな、と今は思って納得しようとしている。
それは、いい歳こいてアイドルや、或いは物に依存するな、という警告的なことかもしれないし、或いはもっと他の肯定的な何か、何か良いことの前兆とか(まあ例えば新しい恋の出現とか(笑))、かもしれない、と今は思って納得しようとしている(笑)。

といいつつも、このDVDを時々レコーダーにかけてみては、「突然復活しねえかな」と淡い期待と未練が未だ抜けきらない今日この頃なのであった(笑)。

修業から調和へ2014年06月15日

以前は人生というものは、理不尽で辛く、そこで忍耐力を養うという修業をする為にあるのだ、という風に思っていた。

これは、ある局面では正しい見方なのかもしれない。
でも今は、もっと別な考え方をするようになった。

人生が理不尽かどうかは、自分が決めているのだ、と。
自分の中の潜在意識、もっと言うと、魂と呼べるものなのかもしれないが、そうした内奥の自分、というものが、周りの世の中の在り方を決めているのだ、と。

すなわち自分が、世の中は理不尽だ、と思えば、その通りに展開していくし、そうでない、と思えば、そうでなく展開していく。

そして、理不尽かどうかは、自分の魂が、自分の成長度合いに応じて、「今は世の中を理不尽だと思い過ごす時代を経るべきだ」と判断して、理不尽にしている、と。

僕は、人間は最終的には世の中と調和していくべきだと思っている。
ただ、その途上で調和に至るまでの調整の時代、すなわち世の理不尽と戦う時代、も経ていかなければならない、とも思っている。

宇宙の仕組みとして、自分の心の中を周りの世界が反映する、というのがある。
周りの世界の理不尽は、すなわち自分の心の中の歪み、理不尽、でもあるのである。
それを矯正していく時代、というのは必要な時があるだろう。

只厳密に言うと、世の中に理不尽というのは無い、と思っている。
世の出来事には、一見理不尽に見えても、全てそれなりの理由がある。
おそらく、その全てを知ることができれば、人はお互いに憎しむことなく、お互いを赦すこともできるのだろう。
理不尽、と感じるのは、我々が、そのことについての情報を全て知らされていない為に起こるのだろう。

しかしながら実際は、その全てを知らされることは無い。少なくともこの物質世界に生を受けている間は無い。

全てを知ることによって、その全てを知った、という条件付きで人は他を赦すことができるだろう。
しかし条件付きの赦しなら、誰にでもできるだろう。
我々に要求されているのは、もっと高度な、無条件の赦し、無条件の愛、というものだ。

太陽は、地球の善悪に係らず、いつも無条件で地球に光を供給してくれる。
我々は最終的に、あの太陽のように、無条件に世の中に光を供給する存在になることを、内奥で目指しているのだろう。
条件によって、光が出たり出なかったりする不安定な状態では無く、常に光を届ける存在になることを僕らは内奥で望んでいるのだろう。

おそらくであるが、「全てを知ってから無条件に愛す」のでは無く、「無条件に愛した時に全てがわかる」のだとも思う。

ともあれ理不尽な世の中に疲れ切った時は、「世の中は実は素晴らしい」と思い始めてみるのも良いだろう。

老いの中の美2014年06月08日

自分の親が老いていく姿を見るのは、普通は辛く哀しいものだ。
特に病気をし、日毎に身体の様子も変化していくのであれば、尚更だろう。

しかしそれは、僕らが物質的側面のみに焦点を置いているから、哀しみが出てくるのだろう。

人間とは、心・魂・そして身体も含めた総体を言うのであれば、老いる、ということは、成熟、すなわち、今世の人間の人生の総決算でもあるだろう。

であれば、老いることの中に、心の成長、魂の成熟、が見られるのであれば、実は老いの中に、人間の美しさ、を見ることもできるのかもしれない・・・。

上記のようなことを、僕がいつも拝見させていただいているある方のブログの記事を読み、ハッと気づかされた。

僕自身も親の病気により同じような境遇を体験しているが、親の老いの中に哀しみしか見いだせていなかった自分がいた。
しかし、老いる、というのは、人間の本来が魂や心であれば、哀しみだけでは無い、もっと肯定的な側面を持つものである、ということに今更ながら気づかされた。

老いを、劣化、と見てしまうのは物質的側面のみを見ているからであって、魂から見れば「成熟」になる。

シュタイナーの本に載っていたエピソードを、思い出したが、キリストが道を歩いていると、腐った犬の死体があり、人々はそれを見て口々に嫌悪を表し忌み嫌った。しかしキリストだけは、犬の歯並びが美しい、と言ってその犬を褒めたそうだ。
これはどんなことでもその中に長所を見つけることの大切さのエピソードとして出てきた話であるが、キリストは、死体、という物質体のみならず、もっと大きなものも含めて見えていたのだろう。

山けんさんのブログ
http://ameblo.jp/yamamotokenta/
http://ameblo.jp/yamamotokenta/entry-11873380068.html

僕の運というよりは2014年06月01日

モテナイ独身中年あるある、になってしまうかもしれないが、モテナイ独身中年にとっては、スーパーのレジなどは、是非とも女性であってほしい。
僕などは、全世界のレジ全て女性でもいいとすら思っている(笑)。

理由は比較的単純で、要は独身中年として買ったものを男性に触られたくない、というのがある。
良く潔癖症のヒドすぎる人で、買ったものを帰ってきてから洗う、などというのを聞いたりするが、僕はあそこまでひどくは無いが、気持ちは良くわかる。
僕の場合、日常の消耗品や食料、つまりすぐ消えてしまうものを男性に触られるのは、まああまり気にならない。
下着や大切な本やCD等、つまり永く家で愛用するものを、男性に触られるのが、あまり好きではない。ただでさへ女っ気が無く男性臭にウンザリしているところに、もうこれ以上男性気を取り込みたくない、というのが本音だ(笑)。

まあ全く嫌、というわけではないが、後で、「この本、あの綺麗なネエチャンのレジだったな」というのと「この本、あのアンちゃんのレジかよ」というのでは、その本のその後の扱いにかなりのテンション差が出ることは否めない(笑)。

そんな今日この頃、とある書店に行き、レジに並んだ。
レジは5つあり、4つはオネエチャンレジ、1台がオッサンレジだった。

レジへの並びの順番が僕の前にあと一人、まで来た。
僕の前に並んでいるのは髪を茶髪に染めた赤いトレーナーのオバサンだった。

レジは2台ほどが、もう金銭のやりとりをしていて空きそうだ。
しかしその内の一つが、なんとオッサンレジだ(笑)。

オネエチャンレジが空いてしまうと、必然的に僕はオッサンレジになる。
しかもオネエチャンレジの方が今にも空きそうだ。
確率五分の一なのに、オレが又オッサンレジかーっ!(泣)。
まあ、こんな少ない確率なのにオッサンに当たる現象は、今までくさるほど良くあった現象なので、今更ここでもう落胆はしない(泣笑)・・・

などと思っていたところへ、なんとオッサンレジの方が先に空いた。
オネエチャンレジでは、まさかの「奇跡的モタモタ現象」が発生し、客との事後のやりとりで何やらモタモタしている。

しかし、せっかくオッサンレジが空いたのに、前のオバサンはなかなかレジに進もうとしない。
こういう時、オバサンは真っ先にレジに進むのになあ、と思っていると、そのオバサンは、あまつさへ、モタモタオネエチャンレジの方へ行こうとすら見える。
「なんだよ、オッサンレジ空いてるの見えねえのかよ、よっぽど周りが見えねえのかな」と思いつつ、ふとオバサンを見ると、その時周りを伺っていた、オバサンの顔が見えた。

そして僕は驚いた。

「オバサンじゃねえ!、アンちゃんだっ!」

髪が長かったのと小太りな感じで、てっきり女性とばかり思っていたのが、男性、それもいかにもオタクな感じの男性だったのである。

ここで僕は、この前に並んでいるアンちゃんのモタモタ感の理由を瞬時に把握した。
そしてなかなかレジに行かないイライラと共に、複雑な感情も湧き上がってきた。

なぜなら、このアンちゃんの気持ちは痛いほどわかるからである(笑)。

アンちゃんはおそらく独身で「オネエチャンレジに行きたい、もう確実に大丈夫!」、と思っていたのだろう、それが直前にきての、まさかのモタモタ、そして悪夢のオッサンレジ解放・・・。
僕も、今まで「この手の裏切り」は数えきれないほど喰らってきたので気持ちはよーくわかる(笑)。

しかし無情にも残酷な宣託が下される。
「先頭でお待ちのお客様ドーゾー」なかなかやって来ないアンちゃんに、業を煮やした手招きのレジのオッサンの低い声が店内に響く。

アンちゃんは重い足取りで絞首台に向かうが如く、オッサンレジに向かった。

アンちゃんには申し訳ないと思ったが、これで僕のオネエチャンレジは安泰だ、などと思っていたら、なんと急に今まで閉鎖していた特別カウンターみたいな所にある6台目のレジが解放され、そちらのオネエチャン、しかも他のレジよりもカワイイオネエチャンが、僕を呼んでくれた(笑)。

僕自身に関して言えば、今日はラッキーデイで何も心配することは無かったようだ(笑)。

しかし、可能性のことを言えば、先程のアンちゃんが待っている時点で、6台目のオネエチャンレジが解放されても良かった、ということもある。
そうなったら、僕がオッサンレジになっていただろう。

今日のノリを考えれば、結果的には僕はオネエチャンレジになって、結局僕はラッキーだったかもしれない。

しかし6台あって5台がオネエチャンだから、オネエチャンに当たったところで、それほどラッキーとも言えないのではないか?。

そしてふと、こうも思った。
僕がラッキーというよりは、あのアンちゃんに、ツキが無かったのではなかろうか?

そんなに馬鹿では無いはず2014年05月25日

最近、集団的自衛権などとメディアでとりあげられるように、さも日本が軍事立国へ邁進するかのような雰囲気が漂っているかのように思える。

今の政治はなぜか日本人の少数の右傾派に牛耳られているため、あたかも日本全体が右傾化しているかのように思われているふしもあるように思う。
しかし僕の感触では、少なくとも僕の周辺の世界では、昔はまだしも、あの東日本大震災以後は、軍備や戦争で問題解決を本気で図ろうとすることを最良の手段と考える人は、もうほとんどいないように思う。
今や文化的にも世界をリードするようなものを提示できるようになった、あの日本が今更、軍国主義に至っていくとは到底考えられない。

政治の世界ではともかく、少なくとも民間のレベルでは、問題解決方法の選択をしようとした時に、軍事的な手法を選択しようと考えている人間は、あまりいないのではないかと思う。

もっと言えば、進歩した民間の人間には、軍事的問題解決手段が、人間の進化の過程の中で、いかに退化的な問題解決手段であるかということを認識している人は、少なからずいると思う。
今までの問題解決とは違うレベルでの手法で問題解決ができることを認識している人達も多く生まれてきていることだと思う。

現在は民衆レベルでは、平和主義が根付いているのに、政治レベルでは国を軍事化しようとする図式は依然としてあるのだろう。

僕は今の日本人は、そんなに馬鹿では無いと思っているので、一応右傾化に進む心配はないと思っている。

昔なら、政治が民衆を洗脳することで、国全体を右傾化できただろう。
しかし今は、民衆も発達してきており、政治やメディアに騙される危険性も気づき始めてきているようなので、現在のこの政治と民意のズレは、いつか大きく表面化することになるのだろう。

南佳孝のライブ2014年05月18日

16日に南佳孝のLIVE、「Soloism」というのに行ってきた。
場所は渋谷の文化総合センター大和田伝承ホール。

ライブの内容は、他人の曲のカバーをメインにして、オリジナルを何曲かはさむ構成だった。

ギターとピアノのみの伴奏で、それを一人で交互に演奏する。
南佳孝氏はブラジル音楽にも造詣があって、アレンジにもその影響が伺えた。

僕が南佳孝氏を初めて聞いたのは、高校生の時に友人に勧められて聴いたのだが、その時の友人曰く「日本人には珍しく、日本の演歌の影響が少なく、西洋風で非常に洗練されてる」というようなことだった。

確かに当時日本ではフォークからニューミュージックの転換期で、当時メジャーだったフォークシンガーなどは、良くも悪くも、日本的なメロディアスな味が強く出ていて、演歌などの日本の伝統的音楽の流れが、やはり色濃くあることは感じられた。

であるから、南氏は日本のミュージシャンとしては、非常に早い時期から、洋風のクオリティーの高い音楽をやってきた一人ではないだろうか。

カバーは洋楽が多く、トップはビートルズの「すてきなダンス(アイム・ハピー・ジャスト・ダンス・ウィズ・ユー)」からビリージョエルの「素顔のままで」に続くなど、僕もほとんどわかる曲であったが、それだけに、60を過ぎても、こうして好きな曲を歌って行ける南佳孝氏に、うらやましさ、羨望の念がひしひしと湧いてきた。

この曲は、こうしてアレンジするんだ!、とかこういう切り口もあるんだ!、とか、この曲ライブでやると、こうなるんだ!、とか、いろんな発見もさせてくれた。

いろんな意味で、啓示的なライブだった。

逆をすることが増えた2014年05月11日

人の長所を見て、褒めていくことは確かに大切だろう。

ただ人によって、褒めて伸びる人と、叩かれて伸びる人とパターンがあることも確かだ。

実際褒めると、悪い言い方になってしまうが「つけあがって」それ以上の向上を放棄してしまう人がいることを、最近思い知らされた(笑)。

そんな人を、大きく包みこんで赦してあげると、つけあがる、ことがわかった(笑)。

こういう人には、思い切って説教した方がいいこともわかった(笑)。

説教が、その人を自立させ改心させる本当の愛なのだと、最近わかった(笑)。

勿論、そんな人が、説教を素直にハイハイと聞くはずは無い(笑)。

ただ誠意を持った説教は、いつかは通ずると信じ続けることが肝心だ。

説教したことで、相手が離れてしまうことも覚悟しておいた方が良い。

もしかしたら、敢えて離した方が、自立の為にはいいのかもしれない。

なぜなら「つけあがる」とは、「依存する」とほぼ同義であって、「褒めること」=「賞賛」をほしいため、もっともっとこちらに要求してくる、つまりこちらのエネルギーに依存してくる、という図式がベースにあるからだ。

そういうわけで、なんか最近は、今まで良いとされていたこと、褒めること、などの、逆をしてみたりすることが多いような気のする、今日この頃であった。

小学生に回帰2014年05月04日

小さい頃、動物が好きだった。
買ってもらった図鑑の動物や鳥、魚、昆虫の巻をしょっちゅう眺めていた。特に学研の図鑑を良く読んでいた。

その延長で、動物のフィギアを一時期集めていたことがあった。

近くのおもちゃ屋に売っていたもので、結構リアルなものだったと記憶する。
リアルかつ、子供の僕にはすごくカッコ良く見えた。

しかしこのフィギアもタダでは無く、それなりの値段があり、僕が持てるのはある程度の値段のものだけだった。
それで近所の金持ちの友人が、このシリーズの値段の高いやつ(象・サイなどの巨大なもの)を持っていて、羨ましかったものだった。

中学に入学し、ビートルズなどに興味を持ったこともあって、こうしたフィギアへの興味も無くなった。

あれから40年以上の年月が流れた。

動物のフィギアを集めていたのと同じ時期に切手も蒐集していて、この切手蒐集は今年の正月くらいから復活した。

子供の頃持っていた切手を久しぶりに田舎から持ってきて又蒐集するようになって、ふと動物のフィギアのことも思い出した。

ただあの頃集めていたものが、どこの誰が作っていたか?などというような情報が今や全くわからなかった。

ネットで「動物のフィギア」で検索すると、どうやら現在は「シュライヒ」というメーカーがリアルな動物のフィギアを生産しているらしいことがわかった。
ヨドバシカメラに売っていることもわかった。

早速秋葉原のヨドバシに行って写真のものを購入してきた。

トラとチーターは、僕が子供の頃のものは、もっと小さくコンパクトだった。
バイソンは、昔僕が持っていたものと結構雰囲気が近く、ほぼ理想的な感じだった。
サイは昔のものの方がカッコ良かった気もする。
あの頃、持っていなかった象は、また次回に購入するまでの楽しみとした。

今年に入ってから、なぜか小学生時代への回帰傾向は強い(笑)。
まあただ動物のフィギアは新しい趣味、というまでには成りえなくて、ある程度揃えれば、それで蒐集は満足して終了、ということになるだろう。
つまり、小学生時代のトラウマ的な思いが解消された時点で(笑)、終了になる、ということだ。

しかし切手は、新しいものが発行されるため、たぶんこれからも細々と続いていくのだろう。

お金とスペースがあれば動物のフィギア蒐集も趣味にはなるだろうが、ならない、と思っている、ということは結局「お金とスペース」は十分にない(笑)、ということも言える。

音楽との出会いも縁2014年04月27日

もうかなり昔、自宅に有線放送を引いていた時期があった。
いつでもいろんな音楽が聴けて便利であったが、経済的な理由で辞めてしまった。

あの頃は新しいヒット曲も良く聴いていたし、世界の音楽にも目を向けたりして、なんか全ての音楽を知っているかのような錯覚をしていた(笑)。

今、日本のヒットチャートも全然わからないし、ましてや外国のチャートなどもわからない。
音楽のトピックでもわからないことが多いし、昔の曲でも聞いたことの無かったりする曲も多い。

音楽が嫌いになったわけでは全然無くて、今でも音楽は僕の生活の大きな部分を占めていることは確かである。
ただこの年になって、出会える音楽も、人と同じで、縁があってのことかな、と思うようになってきた。

実際のところ、世の中に出回っている音楽は膨大な量であって、勿論全て聴けるわけでは無い。
自分の時代では当然の定番だった曲も、時代が変わると、知らない人も増えてくるし、逆に、今定番と言われている曲も、自分は全く知らなかったりする。

昔から大好きだと公言しているアーティストでも最近発売したものを聴いていないと、もう話についていけなくなっている時もあったりする。

一生で出会い、自分に深く影響を与えてくれる人たちは限らているだろう。

音楽も、そうかもしれなくて、人よりも曲数は多いが、やはり世界の曲のごく一部と我々は出会うのだろう。

逆に考えると、この世にはまだ出会っていない良い曲が沢山ある、ということだ。
そうした曲に出会える楽しみが、まだ沢山残されている、ということだ。

今度こそ恐れを手放す2014年04月20日

こないだドリーンバーチュ氏の大天使ミカエルのオラクルカードというのを引いてみたら、出てきたメッセージが、「Let go of fear, Now(今度こそ恐れを手放しなさい)」というカードであった。

ところで、ここ最近は、以下のような現象が引き続いて発生する。

2014年04月15日 皆既月食
2014年04月20日 イースター(復活祭:春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)
2014年04月22~23日 カーディナル・グランドクロス
((牡羊座天王星、蟹座木星、天秤座火星、山羊座冥王星と活動宮に座して、互いに十字を形成)
2014年04月29日 金環日食

何やら、天界は大忙し、という感じだ(笑)。

僕自身も、この天空のスケジュールに合わせているのかどうかわからぬが、今年に入って、身辺の環境の大きな変化を経験している最中、という感じだ。

今までにも、かなり動揺するような事態も発生してきているが、ポイントは「恐れを手放す」という言葉に象徴されるように、要は、とにかく心配するな、ということらしい。

おそらくこの変化は、最善の状態に向かうための準備でもある、ということなのだろう。

僕に限らず、今大きな変化を体験している人は多くいるようだ。

打つ手に困った時は、もがくのを放棄し悩むのを一旦止め無心になり、大きな流れに身を委ねてしまう、というのも一つの方法だろう。