シナリオ気にしてちゃ2013年12月15日

2006年に寺尾聡が自らの往年の大ヒットアルバム「Reflections」をセルフカバーした「Re-Cool Reflections」というアルバムを出した。
曲の順番・雰囲気は変えず、アレンジをいくらか変えている。

最近このアルバムを良く聴いている。
中でも「出航 SASURAI」が、アコースティックなアレンジが施してあって、こっちの方がイイかもな、と思えるくらいの出来だ。

僕が浪人時代に、「Reflections」が大ヒットしたが、このアルバムは曲も粒ぞろいで、中でも「予期せぬ出来事」という曲が僕は当時好きだった。

カップルでパーティーに行った男が、他のカップルの女とパーティーを抜け出して恋に落ちていく、という話が、実に明るい曲調で歌われていく。

これ今思えば、体の良い浮気礼賛の歌というか、とんでもないチャラ男の歌である(笑)。

ただ僕自身当時はそんな意識は全然無くて、むしろこの曲の世界に憧れすら抱いていたもんだ(笑)。

この曲の作詞は、寺尾聡氏では無い。
大ヒットした「ルビーの指輪」は、あの松本隆であるが、この「Reflections」の楽曲の大半を作詞したのは、女性作詞家の有川 正沙子氏である。

つまり「予期せぬ出来事」も有川氏の作詞になる。

であるから、こんなことも想像してみた。

この「予期せぬ出来事」では、パーティーで視線があった男女が、そこでビビッときて、お互いのパートナーの目を盗んで抜け出してしまう、という展開であるが、実はこうした劇的アバンチュールを、女性が潜在的に望んでいるのではないか?。ということだ。

勿論有川氏に男性目線での作詞が発注されたわけだろうけれど、潜在願望が出ないとも限らないはずだ(笑)。

だからと言って、僕がパーティーに出て、他のカップルの女性を奪ってやろうと思っているわけでは無い(笑)。そもそもパーティーに一緒に行くパートナーも無ければ、パーティー自体すら無い(笑)。

まあ、ともあれ、この曲は今でも僕の好きな曲ということには、変わりない。
確かに全体的にはチャラい詩ではあるが、この曲には僕自身、昔も今も好きなフレーズがある。

それがサビに出てくる「シナリオ気にしてちゃ、恋はできない」というフレーズだ。

結構恋というものは人によってそれぞれで、マニュアル、というものがあまり通用しない、という気がする。
この曲の意味とは多少違うが、恋の偶発感個別感みたいなのが「シナリオ気にしてちゃ、恋はできない」というフレーズに、とても良く出ている、そんな気がする。

まあ、50過ぎの独身男の考えることでもないが(笑)。

赤い糸?2013年08月11日

歳を取ってくると、今まで生えてなかった個所に毛が生えてくる。

耳の中まで毛が生えてくる(笑)。

そんな中、数年前から右の二の腕に一本のひょろっとした毛が生えるようになった。

パッと見、オッサンの只の縮れ毛である(笑)。

ただ、以前こんな噂を聞き、この毛がちょっと気になるようになった。

スピリチュアル系の俗説であるが、運命の人とは赤い糸で繋がっている、と言われているが、その赤い糸はその人の右腕から出ている。すなわち、運命の人とは、右腕で繋がれている・・・と。

何を言いたいか、というと、この僕の右腕の毛は、赤い糸の象徴なのではないか?と(笑)。

勿論、現在の実生活では、周りを見渡しても、それに該当するような人が見当たらない(笑)。

良いように解釈すると、赤い糸の人は、もうどこかにいて、あとはその人の現れ待ちだと(笑)。

ただ、この毛は、どうも1年位で生え変わってしまい、最初抜け落ちた時、ありゃりゃ、運命の人どっかいっちゃった?!、と焦ったもんだった(笑)。
その後すぐ生えてきたので、事なきを得たが(笑)、ただ、今の所まだ、待ち状態が続いている(笑)。

・・・、と、まあ、こんな風に、たった一本の毛でも、こうして妄想して楽しめる、ということなのであった(笑)。

雪で思い出す2013年01月14日

今日は東京は初雪だったが、結構な量が降ったようだ。
成人式は大変だったろうが、逆に思い出には残るのだろう。

昔僕が大学生の頃、温暖な静岡県出身の僕が、東京で初めて豪雪を体験した。
折しも新聞配達のバイトをやっていて、まあその時は語るも涙(笑?)な惨憺たる配達を体験した(笑)。

それで、すっかり雪嫌い雨嫌いになってしまったわけであるが、その後、当時ちょっと仲良くしてもらっていた女性がいて、その子がなぜか雪と猫が大好きで、両方とも当時僕が嫌いなものであった(笑)。
彼女に言わせれば、雪は非常にロマンティックで抒情性がある、とのことであった。

勿論僕は、雪と猫が好きになるよう、考え方を変えるべく努力した(笑)。
猫は配達の時に、薄汚いゴミばかり漁っているような野良猫が沢山いて、当時かなり不愉快な思いをしていたのであるが、勿論猫に対して軽蔑の視線を送ることは止めた(笑)。

結局その努力は実らなかったのであるが(笑)、まあ雪と猫に対する偏見は無くなり、お陰様で今でも両方に対してもフラットな気持ちでいることはできる。

ただ、当時を思い出すと、なぜ好きな女性とこんなに感性が違うのだろう?、と何か男と女のうまくいかない恋に対する大きな挫折感を抱いてしまった、ちょっぴりほろ苦い思いを思い出し、懐かしいような切ないような気持にはなる。

性懲りもなく考えてみた2008年12月10日

 性懲りもなく最近「運命の人」について考えてみる時がある。

 例えば、朝遅刻しそうになってパニックしながら急いでいた矢先に、道で誰かとぶつかってしまったとする。
 ここでそのぶつかった人が、メチャクチャタイプの美人女性だったとする。するとそれは即「運命の人」になってしまうことだろう。
 ところが、それが薄汚いオッサンだったら、すなわち「とんだ邪魔者」になってしまうだろう。
つまり僕らの考える「運命の人」とは、極めて主観的期待に満ちた定義でしかなさそうなのである。

 もっと広く宇宙的な視野で考えれば、オッサンだろうが美女だろうが、そのぶつかった人は、ぶつかるべくしてぶつかった用意された「運命の人」には変わりないのだろう。

 この用意された関係において、どうそれを扱うか、抵抗するのか、エゴイスティックな期待にかられて必死ですがろうとするのか。
 ただ僕らができる最良の行動は、やはりどんな出会いにおいても愛を持って接することだろう。
 それを積み重ねていくと、やがて、自分のイメージする「運命の人」に出会えるのかもしれない。
 言い換えると、そうした出会いを大切にしていかないと、いわゆる僕らが期待するイメージでの「運命の人」に出会った時に、それ相応の自分になっていないで、せっかくの大事な「運命の人」に見合うチャンスを逃してしまうかもしれない。

 だが考えてみると、「運命の人」ほど強烈な縁の持ち主なら、逆に、そうしたエゴイスティックな自分を見せつけられる機会がもしかしたら与えられているのかもしれない。
 だとすれば、何も心配することは無く、与えられた関係に全力投球すれば良いだけなのかもしれない。

 いろいろ考えると、また堂々巡りな思考に陥るな・・・。やれやれ。

 結局やっぱり「あるがままで(Let it be)」、どんな出会いでも、それを純粋に受け入れ楽しむことを考えた方が良さそうだ。

運命の人2008年09月06日

 良く、運命の人に出会ったとき、ビビッとくる、という。
 もしいわゆる異性のパートナーとしての運命の人の定義を、この「ビビッと」とするならば、僕は一体今まで、どれぐらい沢山の運命の人と出会っただろうか。
 これは僕だけではない、と思う。およそ男=オスというものなら、自分の好みのタイプを見たら、瞬間的にビビっときているのでは無かろうか?。
 芸能人のとびきりカワイイのをテレビで見た瞬間、ビビっときて、街で美人を見かけビビっときて、それこそ盛りのついた動物の如く、四六時中ビビビビ来ているのではなかろうか?。

 つまり言ってしまえば、この「ビビッと」だけでは、いわゆる異性のパートナーとしての運命の人の定義としては、いささか弱い気がするのである。

 以前、通勤電車で、朝二本乗り換えがあって、その二本共に同じ時間同じ車両に乗ってくる女性がいた。
 しかも僕にしたら物凄いタイプ、超ストライクの子で、更には満員電車で同じになるので、そりゃもうかなり興奮する状態にもなるくらい密着したりして、随分通勤に幸せな瞬間を与えてくれた女神のような女性だった。
 しかも、僕が仕事の都合で、いつもと全然違う時間に電車に乗ったのに、その子がいたりした時もあり、こりゃ完全に運命の人だと思ってしまったくらいだった。彼女がたまに車内で携帯を見ているので、そのことにかこつけてメールアドレスを教え合おうよ、と言ってみよう、・・・などという妄想をいつも抱いていた始末だった。

 ところがとある日、ほんのちょっとしたハプニングが起こった。
 いつものように満員電車に乗り込む時、これまたいつものようにドアのところで彼女と並ぶ格好になった。僕はいつものように”シメシメまたオイシイ時間ですな、こりゃ!、などと思っていると、僕のカバンがドアに挟まってるのに気づいた。朝の通勤時にこの状態、勿論大ひんしゅくである。
僕はカバンを引っ張りながら思わず「チッ!」と舌打ちしてしまった。
 するとなんとこの後、あろうことか彼女がなぜか、僕の隣の立ち位置をズルズルとどいて、後ろ、つまり電車の中の方に引っ込んでしまったのである。
 ん!?、ありゃりゃ、なぜ?、どーして?。
 僕は?????の、つきまくった状態で、彼女の代わりに変なオヤジが立ち位置に入ってきたのも気づかず、呆然とそのままその状態で終点までやり過ごしてしまった。

 その日からである。
 どうしたことか彼女が「僕を避けるような感じ」になり始めた。
 同じ電車でも違う入り口から乗ったり、もう時間帯すら、ずらして乗るようになってしまった。
 最近彼女遠くでしか見られないなあ・・・、などとテンション下がりまくっている内に、結局何もリカバリーもできない状態で、僕は職場の転換になり、その電車に乗ることも無くなり、彼女との縁は途絶えてしまった。

 今でもなぜ彼女が、あの時、僕の隣の立ち位置をどいたのかワカラナイ。
 僕の変に殺気だった感じに嫌気が差したのか?。
 一番悲しいのは、僕の舌打ちが彼女に向けられたものと誤解してしまった、などということがあったとしたらタマラナイ。それは無かったと願いたい。

 結局、あんなに奇跡的なタイミングが合ったり、容姿もタイプの子でも、なんのことも無いクソみたいなことがキッカケとなって、疎遠になってしまうのである(それが原因かもわからんけど)。

 最近僕が思うに、いわゆる異性のパートナーとしての運命の人の定義には、もう一項目重要な項目を追加してもらわんと、いかんな、とつくづく思う。
 勿論「ビビッと」も必要条件ではあろう。
 モテナイしがない独身中年オヤジの僕が言うのも大変おこがましいのであるが、僕が思う、もう一項目は「お互いの間のハプニングやトラブルも、それをリカバーする機会があって、尚かつそれでお互い成長しあえる仲」、それがいわゆる異性のパートナーとしての運命の人の条件、では無いか?と思う。

 これは結局どういうことかというと、ある程度お互い親密な距離になって、それなりの期間というか時間をかけないとわからない、ということでもある。

 逆に言えば、ちょっとくらい喧嘩したり、気まずい感じになっても、なんとかそれを克服するチャンスや時間や場所が与えられている仲、だったら、いわゆる異性のパートナーとしての運命の人、かもしれない。

 もし先の電車の彼女がいわゆる異性のパートナーとしての運命の人だったら、あの謎の撤退があっても「最近あまり一緒にならないね、どうした?」などと僕が発言できる機会が与えられていたことだろう。実際は勿論、そんなレベルでもノリでも無かった。つまりハッキリ言ってしまえば「縁が無かった」ということになる。

 誤解無きように言っておくが、今は僕はあくまでも、いわゆる異性のパートナーとしての運命の人、というのに限定して述べている。すなわち恋人や配偶者、ということである。

 本当に宇宙的に広い意味で言ってしまえば、僕らが出会う人々は、性別年齢関係なく全て運命の人だ。勿論先の電車の彼女だって、宇宙的運命の人であったことは間違いない。

部屋では無く、自分のせい2007年07月27日

 東京都北区に引っ越してきて二ヶ月以上が経ち、だいぶ馴染んできた。

 僕は前に住んでた稲城市に越した当時は「次に出て行く時は結婚する時だな!、がはは!」などと周囲に豪語していた記憶がある。
 しかしながら結局、当然というか、やっぱりというか、今回も独り身のままの退去となった。

 以前とある雑誌に独身男の女運の悪い家相の例というのが載ってた。
 1Kの間取りで東北向き(鬼門)の玄関、そのすぐ横の水回り・・・。
 なんじゃ、こりゃあああ!、ワシの部屋じゃああああ!。
 全く稲城時代の部屋ピッタリそのままだった。

 てめえのモテナサを家相のせいにはしたくないが、16年間を振り返ってみると、これには何も返す言葉はありませんでした。
 出会いが無かったというわけでは無い。
 むしろ結構人よりもあったかもしれんくらいだ。
 でも、どうやらその雑誌によれば、その僕の居た所のような家相だと女運が、みいんな綺麗に流れていってしまうらしい。
 てめえのモテナサを今更家相のせいにはしたくないが、結構ズバリと言い当てられている気もしないでも無いとこが悔しい。

 今の北区の住居は女運の良い家相かどうかわワカラン。
 まあ少なくとも稲城時代よりはずっと広くなったので、家相以前に女性の入り込む余地が全く無かった稲城時代よりは、全然良くなったと思いたい。
 人生恋が無いと、随分と味気なくツマラナイものになってしまうもんだ。今度は心機一転、エロの時代に、いや失礼、良い女回りの時代、ん?、それも変な言い方だな・・・、ま、とにかく良い時代にしたいもんだ。

 ただ実際のところ、長らく気にかかってることがあって、なかなか新しい恋に踏み出せない、というのが現状ではある。
 正直なところ、恋に関して自分が本当はどうしたいのか?、何を望んでるのか?、かなり混乱した状態にいる、というのが素直なところではある。

 女心とは男子にとっては、いつまでたっても不可解なものだ。
 この歳で未だ独身だと、何か自分に欠陥があるのでは無いかと思われがちだ。
 僕自身は、そんなことは全然気にしてないが、まあこの独り身の時期にもっと女心でも勉強して、もっと成長せえ、欠陥商品と思われないようにせえ、と、そういうことなのだろう、などと思ってる。
 あくまでもモテナイのは家のせいでは無く、己のせいですものね、とほほ。

いつか愛に2006年12月16日

 正月に帰省する際iPodで聴く用に、スキマスイッチのニューアルバム「夕風ブレンド」とKANの最近のアルバム「遙かなる回り道の向こうで」を買ってきた。
 スキマスイッチは楽曲も良いのは勿論のこと、大橋卓弥の声がイイ。ミュージシャンの場合、声というのはやっぱり才能の一部なんだろうなあ、とスキマスイッチを聴いてると思う。

 KANは昔「愛は勝つ」などで知られていたが、最近の曲で「カレーライス」とか「世界でいちばん好きな人」というのが聴いてみたら良かったので、アルバムも入手した。
 「カレーライス」は、恋人、というよりこの場合はたぶん夫婦なんだろうと思うが、その二人が喧嘩とか諍いを度々起こすけど、冷めたカレーライスを翌朝又温めなおして新しく作り直すように僕らもそれでイイ、といったような内容の歌だ。カレーライスという極々小市民的な題材をとりながらも実は普遍的な愛の形を歌っている。

「世界でいちばん好きな人」も、やはり恋人か夫婦のことを、より普遍的に歌っている。
 偶然出会った二人の間には確かなものは何も無い、それでいつも不安になる。でもそんな二人もたまに傷つけあうこともありながらも、普通の日々を大切にし、お互いの愛を積み重ね、次第に確かなものを築きあげていく・・・意訳的にまとめてしまうと、こんな感じの内容だ。

 2曲とも曲調や題材の選択センスなどは、いかにもKANらしく昔とそんなに変わりないような気もするが、曲のオーラというのか雰囲気というのか何か明らかに成長した跡が伺えるような気がした。両方とも「愛」の歌、テーマが「愛」。結構泣ける。

 * * *

 以前お気に入りのオネエチャンの店で飲んでいた時に、自分は”恋愛では悩まないのか?”と聞かれ、僕は”恋愛では悩まない”と答えたことがあった。
 ”悩まない”などというと、強がっているようにしか聞こえ無い気もしないでもない。
 厳密に言えば、”悩まないようにしている”となる。
 勿論これは僕だけが個人的に自分に課してることなので、普通だったら恋愛では大いに悩んでいいと思う。

 ”悩まない、ようにしている”理由は、まあ、イイ歳こいたオッサンだからというのもあるのだが、それよりも大きな理由に、まず一つにはこんなことがある。

 それは恋愛、この場合は「恋」というように限定するけど、恋はある種、天からのギフトだと思っているからだ。
 天からの贈り物に文句を言ってはいけない。

 明石屋さんまの師匠笑福亭松之助が、人間は元々裸一貫(ゼロ)で生まれてくるのだから、生まれた後で身に付けるものは皆プラスのものになるんだみたいなことを、よく言ってたらしい。無くなったら又元のゼロに戻るだけだ。なるほどなと思った。

 恋も同じで、元々何も無かったところに、突然相手が現れるのである。それも好きな人が。
 これが天からの贈り物で無いことがあろうか。

 その恋が、うまくいこうがいくまいが、大好きな人に巡り合えただけでも大きなプラス、儲けもんなのである。無くしても又元に戻ったのだし、例え今好きな人が現れなくても別に損している訳じゃなく、きっと自分を磨くとか他にすることがあるのだ。

 ただ人生を大きな修行の場だと仮定した時に、恋も一種の修行的側面はある。
 恋は甘美ではあるけれども、意外に実は辛く切ないダークサイドな面が多かったりする。

 しかしそんなダークサイドな恋も、他の過酷な修行、例えば貧困・天災・戦争・事故・病気・・・などといったものに比べれば、・・・まれに恋愛が殺傷沙汰にまで及んでしまうこともあるが、それは悪い見本として・・・恋は修行の中においてはいかに甘美で恵まれているものではないだろうか?。

 宇宙から見たら、地球に生まれただけでもありがたい。
 それを更に恋愛ができるなんて、きっと他の宇宙存在や地上に転生できなかった存在達から超うらやましがられるかもしれないのだ。恋愛で悩んでたらバチがあたる。

 恋が意外にダークサイドな面が多いのは、恋をすると自分自身の闇=ダークサイドと向き合わざるを得なくなってくるからだろう。
 どこかに書いてあったのだが、恋すると途端に出てくる人間の大きな闇の心が「嫉妬心」「猜疑心」「執着心」だそうだ。
 恋とは、自らのこれらの闇と正面で向き合うのが、その大半であることもしばしばだ。

 他の人には絶対言うはずのないことを寄りによって一番好きな人に言ってしまったり、心にも無いことを思わず言ってしまったり、自分でも思いがけないような言動で相手を傷つけてしまったり、いつもと違う自分が出てきて自分がコントロールできずパニックしたり、自分が意図してなかったのに別の意味にとられて誤解を招いたり。

 これらは皆相手をたまらなく好きであるがこそ出てきてしまう「嫉妬心」「猜疑心」「執着心」が途端に表面に浮上してきた結果だろう。
 いつもは潜伏していた自らの、これらの闇が「恋のおかげ」で表に出てきて、その人に改善と成長を促すのである。
 逆説的に言うと「嫉妬心」「猜疑心」「執着心」に自らを焼き尽くされることこそ恋の醍醐味なのかもしれない。

 恋においては相手の欠点や闇の部分〜ダークサイドも受け入れ許してやることが必要だ。
 しかし更に自分のダークサイドと向き合い、それを認め許してやることも必要になる。 
 相手の闇を見ながら、実は自分の闇に気づかされるのである。自分が変わらなければ相手を愛することはできない。

 他人ではあるけれど好きな人と深く向き合って、そこに例え妨害が入ったり食い違いや摩擦が生じても、それらはお互いの眠っていた何かを目覚めさせ、やがてはお互いの魂の成長に繋がっていくものなのかもしれないのである。

 恋する前は自分と感性が同じ人がイイなどと思っていたのに、実際は全然違う人と一緒になったりすることも良くある。
 そうであっても実は魂が覚醒するためには、その人が一番ふさわしい相手だったりする。
 だから自分にとって一番ふさわしい相手とは機械的なデータや占いなどで相性の良かった相手では無く、本当は自分の前に現れた人、なのかもしれない。

 相手や自分をありのままに認めるということは、すなわち自分の中に、それらを受け入れる為の心のスペースを作ってやることだろう。

 恋に限らず、普段の様々な人間関係においても、いろいろな人間を認め受け入れ、心のスペースをドンドン広げていくことも大切だ。それを続けて拡げていくと、やがてはどのような存在に近づいていくのだろうか?。
 僕はそれが神と呼ばれるものではないのかと思っている。神こそは全ての人や宇宙を受け入れる十分なスペースを持っている存在、そうでなければならないし、そうであるからこそ神なのだろう。

 こうしてスペースを自分の中に作れることで人間は又一歩成長する。

 恋というのはどこかしらウイルスのような側面もある。
 相手のことを考えると、ずっと胸の辺りや、頭や体が苦しく重苦しい感じになったり、かといえば、妙に感受性が強くなって、なんでも無いのに急に泣きたくなったり、今まで全く興味の無かったものに急に反応するようになったり。ホルモンの分泌に変化を来す人もあろう。

 かように恋のウイルスは、体の中から何かを変えていくかのようだ。
 こうして恋のパワーは、自分をグチャグチャに引っ掻き回して、魂を覚醒させていく。
 それが大好きな人とできるのだったら、例え修行であっても、なんと幸せなことなのではないのだろうか。
 楽しいこと悲しいこと、みんな含めて、それ全部が恋なのだ。

 僕が”悩まないようにしている”理由の、もう一つは、たぶん恋も縁なのだろうから出会いや別れについて過度に心配しても仕方ないと思っているからである。

 縁の無い人とは、どうあっても縁がつかないし、縁があると逆にどうあっても出会うだろうし、時には嫌でも出会う。
 人間の縁で最も深いのは親子や兄弟といった血縁だろう。
 僕はこのだだったぴろい都会のただ中で、ここ数年で二度弟に街で偶然バッタリ出あったことがある。家も離れてるし勿論約束があったわけでも無い。さすが血縁のなせる業だと思った。

 血縁に次ぐものが、たぶん夫婦の縁なんだろう。僕は結婚してないから良くはわからんが、とにかく他人が何年も一緒に暮らすのだから、相当深い縁に違いない。そういう深い縁の人なら必ずどこかで出会うのだろうし、そう簡単なことでは離れないのだろう。
 前世で伴侶だった人は今世でも伴侶だったり時には血縁になったりするそうだから、伴侶になる人とは、やはり深い絆で結ばれているのだろう。レミオロメンの歌にあったが、この日本の一億人の中から相手を選ぶ奇跡のような出来事も、そうした絆があるからこそ起こるのだろう。
 
 恋をするのは結構エネルギーがいる。だから人生において、よほど恋の因縁が無ければ、真剣な恋はそう何度もできるものでは無さそうだ。それ故きっと恋の相手も同じように深い縁があるのだから、必ずこの贈り物はどこかでもたらされるのだろう。そして勿論恋から結婚に至ることだってあるだろう。

 * * *

 ともあれ、風邪のウイルスの如き、かくなる恋も、いつかは僕らを去る時が来る。
 この去り方には2通りあるのだと、昔さださん(さだまさし)が「恋愛症候群」という歌の中で歌っていた。
 恋愛を一つの病気に見たてた内容で「もうひとつの恋愛症候群(「自分症候群」に収録)」という別テイクもある。往年の大学受験ラジオ講座のテーマソング、ブラームスの大学祝典序曲で始まって、前半はさだまさし得意のコミカルな語り風な感じで進んでいく。

 最初は良かった恋も次第に盛り下がってきて・・・なんて調子のくだりになって茶化した後、後半こんな歌詞が続く。

『・・・
 とにかくそんな風に笑っちまった方が傷つかずに済むって、わかってるんだ。誰だって。
 そうだろう・・・?。

 恋は必ず消えていくものと、誰もが言うけれど
 二通りの消え方があると思う。
 一つは心が枯れてゆくこと、そしてもう一つは・・・
 愛というものに形を変えること

 相手に求め続けていくのが恋、奪うのが恋
 与え続けていくものが愛、変わらぬ愛

 だからありったけの思いをあなたに投げ続けられたら、それだけでいい・・・

 おそらく求め続けていくのもが恋、奪うのが恋
 与え続けていくものが愛、変わらぬ愛

 だからありったけの思いをあなたに投げ続けられたら、それだけでいい・・・

 あなたに出会えて、心から幸せです・・・

(さだまさし「恋愛症候群 -その発病及び傾向と対策に関する一考察-」より)』

 この歌、前半のコミカルな感じとはうって変わって、後半マジモードになる。そこが結構心を打つ。

 もし恋が「嫉妬心」「猜疑心」「執着心」と向き合うことだとしたならば、この逆の気持ちが芽生えてくれば、その恋も完成型に近づいたと言えるのかもしれない。
 嫉妬心の逆、すなわち相手をありのままに認め許すこと。
 猜疑心の逆、すなわち相手を信じること。
 執着心の逆、すなわち相手をコントロールしようとしない、支配しようとしないこと。
 そして心の中に相手の全てを受け入れるスペースを作ってやること、それができれば、恋が愛に変わっていく可能性は大きいと言える・・・

 ・・・と、あくまでも理想論を、くれぐれも自分に言い聞かせている今日この頃です。