ドビュッシーの気持ち2007年07月02日

 引っ越してからやりたかった案件が幾つかある。
 その内の2つを片付けた。

 一つはDVDレコーダーの修理依頼。
 今液晶テレビの方で録画できるような環境に整えたので、DVDレコーダーは毎日の録画を休ませることができるようになった。
 そういうわけで現在我がDVD入院中である。
 さくらやで買ったので新宿のさくらやに持っていった。3週間はかかるとのこと。
 さくらやは今改装仕立てで、CMのキャラクターにヤナカナ(柳原可奈子)を使ってる。
 店内に張ってあるヤナカナポスター欲しい!、と思っていたが、チラシがあったので貰ってきた。便所に今飾ってある。

 ヤナカナには失礼と思われるかもしれんが、僕の便所に張られるのは、僕が大好きと認定した女性しかいない。
 むしろ名誉なことだ。
 過去、伝説のAV女優川島和津美などが、このポジションを努めてきた。
 大変栄誉ある場なのである。
 ヤナカナや川島和津美の名誉の為に言っておくが、僕は便所だけは汚くしないように努めている。
 これは実家が汲取り便所という幼少時からのトラウマで、便所だけはストレスが無いように入れる場所にしたいというのがあったからだ。

 引っ越し後したかったもう一つは、葛飾北斎の富岳三十六景の「神奈川沖波裏」の絵を飾る、ということだ。
 僕はこの図案のTシャツは持っていて、今もずっと愛用している。
 小さい頃切手収集をしようとして初めて母から買って貰ったのが、この図案の切手だった。
 その頃から何かと不思議な縁を感ずる絵なのである。
 どうせなら本物に近い絵が欲しい、そう思ってた。

 浅草の仲見世でレプリカが売ってたので早速購入してきた。
 往年のヨーロッパの印象派などが影響を受けたと言われている、この絵。

 確かにボーッと見てると、何かパワーを持ってるような気がする。
 こういう劇画タッチのような海は、当時の西欧には無かったのだろう。

 荒れ狂う海に、ちょっと滑稽な感じで巻き込まれるように浮かぶ船と人間。遠くには、このシリーズの真の主人公である SacredMountain~聖なる山 Mt.Fujiが小さく、しかし美しく超然とした趣で浮かんでいる。
 なぜかこの絵は地上人生の象徴にも見える。そして人生の疑問への回答にも・・・。
 海が大好きだったというドビュッシーなども、かつてこの絵を眺めていた。
 今寝ころびながらこの絵を見て、ドビュッシーの気持ちを追いかけているところである。

館ひろしキモオモロイ2007年07月15日

 新垣結衣のカワイサにつられ最近日曜の夜は「パパとムスメの七日間」を見てる。
 新垣結衣のカワイサは、まあ当然として、結構ウケルのが館ひろしの新垣結衣演ずるムスメと入れ替わった父親役の怪演である。ちとハマりそう。

DVD回復2007年07月16日

 入院中のDVDレコーダーが退院し我が家に戻ってきた。
 退院早々DVDレコーダーには申し訳なかったが、即フル稼働で、今まで溜まりに溜まってHDD一杯になってた番組をDVDに移し替えた。
 古いモノは二年前くらいのもあったりして、随分長いことほったらかしにしてたと、これまた申し訳無い気分であった。
 HDDが見る見る内に、昔の空き容量を取り戻していく。溜まった宿便がようやく出て、気の流れがまた徐々に回復しだしたような感じだ。
 こういうとこの整理も一種の掃除ということなのだろう。
 なんか長年詰まっていたものがスッキリして気分もスッキリし出した。

え?こんな娘が、そんなものを!2007年07月17日

 都電に乗って通勤中、僕の前の席が空いて、そこに女子高生か中学生くらいの女子が座った。
 スポーツ系の感じのする、系で言ったらビーチバレーの浅尾美和系の爽やか健康的美少女という感じだ。

 雨のせいか窓ガラスが曇っている。その浅尾っチは、しばらく髪や首の後ろをいじくっていたが、その作業が終了するや、今度はおもむろに窓ガラスに落書きのようなものを書き始めた。
 浅尾っチのアートパフォーマンスの観客たる僕は、この突然のライブ敢行の意味を図り兼ねつつも、しばらくその作品を眺めるともなく眺めていた。

 浅尾っチは、まず、ある一点を中心とし、そこから放射線状に拡がる多少くねった曲線状のものを描いていた。
 見れば、花火のような、彼岸花のような、太陽のような、そんな感じの形状をしている。
 浅尾っチのアートパフォーマンスの観客たるチョイエロオヤジの僕は、ここでこの作品を眺めつつ、自然に連想されてくるイメージに、己の想像を任せていた。チョイエロオヤジの発想は、どうしてもダウンアンダー系というか、なんというか、そういう方向にベクトルが行きがちになる。
 チョイエロオヤジは、その絵を見て、どうしても人間のある器官を想起せずにはいられなかった。
 まあ、言ってしまうならば、人間の排泄系の器官で所謂比較的サイズの大きい物件を担当している器官、すなわち英語でア○ルと呼ばれる部位に酷似してるなあ、そう思わずにはいられなかった。

 浅尾っチのアートパフォーマンスは更に進み佳境に入っていったようだ。
 ここでチョイエロオヤジは、その妄想ベクトルから類推される最終的な到達地として当然の結果となる、人間のとある部位、しかも女性のみが有する部位のことを想起せずにはいられなかった。そして嫌な予感がした。
 「まさか、この子、あの中心点の付近に、円は描かねえよな・・・」。

 このエロ予感は、なんと的中した。
 なんと、その子、中心点付近を指でグルグルやり出した。僕の恐れていた形状が、次第次第に僕の眼前に現出しだしたのだ。
 この形状、その筋では良く知られた形状で、トイレ内の落書きパフォーマンスでは、非常に人気の高いモチーフとしても知られている。
 そして古くは「笑っていいとも」でタモリ氏が安産のお守りにと、良くゲストに渡していたものとしても知られており、大変歴史のあるアートモチーフとして広く親しまれているイメージである。

 「おおっ、マイガッ!」、僕は心の中で吠えつつ、他の観客が、この作品に注目していないか辺りを確認した。
 幸い、付近の乗客は、気づいていないようだったが、僕の心配をよそに少女は、そのパフォーマンスを続けていく。

 その内、少女は僕の心配を知ってか、どうなのか、円を描く作業に次第に力を入れ始め、円を何度も何度も重ねて描く作業に入った。
 簡単に言うと、その絵の真ん中をグチャグチャグチャっとぬりつぶしにかかった。

 僕の心配は、何とか杞憂に終わり、そのアートパフォーマンスは、最終的に、キラキラと輝く太陽のようなものを描いた、というような形となって終止符を打った。女性のみが有する身体的部位、というのからは、どうにかこうにか外れたような形となった。
 途中経過見てたら、どうなることかと思った。
 まあ、昔から、さるあの部位と太陽は女性の象徴として語られることが多いモノだ。

 物事に偶然は無いと言う。
 この出来事の意味は一体何だったのか?。
 少女が僕を挑発した?。
 いやいやそんなことはないだろう。
 少女は僕を見ながら連想する、内なる自己から沸き出でる自然の素直なイメージを無意識のうちに落書きした。
 それが正解。それがすなわち・・・オ○○コ。
 オ○○コかよっ!。
 違うわっ、太陽じゃ、太陽なの!。

「休」と「嘘」と「欲」と「秘」2007年07月22日

 今話題になってる脳内メーカーというのをやってみた。
 頭の後ろの方に「欲」が一杯詰まっているが、これは支配欲とか金銭欲とかいうよりも、エロの方面の欲と思われる。
 その他は・・・、えーと・・・。
 「休」と「嘘」ばっかやないかいっ!。

 まあ、確かに僕の人生、ある意味休みとも言えなくない。
 「嘘」・・・、確かに妄想も嘘と言えば嘘だしなあ。
 自分は嘘ついてない、と思っているが、自分の嘘レベルは、他人と比べたら全然高いのかもしれんなあ・・・、ははは。

 それにしても「秘」いうのは、なんじゃこりゃ~!?。自分でもわからんぞ?。まさか押し入れに隠したエロビデオのことか?。

 「休」と「嘘」と「欲」と「秘」かあ、人生ナメきってるやつの脳内だな、こりゃ、ははは・・・・テメエだよってか?。
 まあ、当たらずとも遠からずという気もしないでもない。つーか会社休んで内緒でエロビデオ見てるやつじゃん、こいつ。

 「休」と「嘘」と「欲」と「秘」かあ、なんかこのタイトルでもしかしてエロビデオ一本できそうだなあ・・・(また。そっちかよっ!)。

愛の惑星、旅の途中2007年07月23日

 20代くらいの若い人と趣味の話などをしていると、「多趣味ですねえ」とか「マルチですねえ」などと言われることがある。
 実際は僕が多趣味だったりマルチというわけでは無い。
 僕はただ単に今までやってきたことを横に並べて話しているだけなのである。
 それが若い人から見るとマルチに写るのだろう。
 僕は”あと20年もしたら君らも自然にこうなってるよ”などと言うのだが若者達は、まあまだあまりピンとはきてないようだ。

 年季というのが、きっとこういうものだろう。
 確かに年数が経って自然に身についた心的態度というのもある。

 昔は占いの結果やおみくじの結果などに一喜一憂したりしていた。
 しかし低迷期のハプニングやトラブルというものは、必ず人間的成長をもたらしてくれるものだ。
 凶期というのは物質的世界から見た凶であって、人間の魂にとっては必ずしも凶では無い、むしろ吉の要素が強いと言ってもいいかもしれない。
 そういうことが年数が経つにつれ次第にわかり始めてきた。

 だから若者が「初詣のおみくじで大凶が出ちゃいましたあ」などと言っていれば、「それは成長の飛躍的チャンスが巡ってきてむしろ喜ぶべきことだ」などといった意味のようなことを訓たれる。

 しかしここが僕のまだ未熟な所であるのだが、当然のことながらこうした説教も、若者にはあまり説得力が無い。
 一つには僕がまだ成長の途上にあって、人生の真理を良く理解していないことにもよる。
 それから説教たれる僕のバックのオーラが、若者に対してまだ”気の毒に、これから大変だが、まあ頑張れよ”的な、同情というか哀れみというか、一種他人事のような気をまだまだ醸し出してしまっているからでもあろう。

 きっと悟った聖人や、スターウォーズのヨーダクラスのマスターなら、こうした説教も全く屈託も無く心底喜ばしげに言うことができるのだろう。
 だから僕も早く「何?、大凶?、おう、君はこの地球という貴重な学びの場で、ラッキーなことに飛躍的な成長の鍵を手にすることができたじゃないか!。きっと君はこの試練を経ることによって人間的深みを増し、やがて多くの人から尊敬されるような大いなる人格に変貌を遂げることができるだろう。おめでとう!」と、全く一点の曇りもなく喜ばしげに言えるようになりたい。

 さてと・・、明日の僕の運勢は・・・と・・。
 何?、大凶?、
 げげっ、ショック!!!、めっちゃテンション下がるわ~!、ギザど~ん!!。

部屋では無く、自分のせい2007年07月27日

 東京都北区に引っ越してきて二ヶ月以上が経ち、だいぶ馴染んできた。

 僕は前に住んでた稲城市に越した当時は「次に出て行く時は結婚する時だな!、がはは!」などと周囲に豪語していた記憶がある。
 しかしながら結局、当然というか、やっぱりというか、今回も独り身のままの退去となった。

 以前とある雑誌に独身男の女運の悪い家相の例というのが載ってた。
 1Kの間取りで東北向き(鬼門)の玄関、そのすぐ横の水回り・・・。
 なんじゃ、こりゃあああ!、ワシの部屋じゃああああ!。
 全く稲城時代の部屋ピッタリそのままだった。

 てめえのモテナサを家相のせいにはしたくないが、16年間を振り返ってみると、これには何も返す言葉はありませんでした。
 出会いが無かったというわけでは無い。
 むしろ結構人よりもあったかもしれんくらいだ。
 でも、どうやらその雑誌によれば、その僕の居た所のような家相だと女運が、みいんな綺麗に流れていってしまうらしい。
 てめえのモテナサを今更家相のせいにはしたくないが、結構ズバリと言い当てられている気もしないでも無いとこが悔しい。

 今の北区の住居は女運の良い家相かどうかわワカラン。
 まあ少なくとも稲城時代よりはずっと広くなったので、家相以前に女性の入り込む余地が全く無かった稲城時代よりは、全然良くなったと思いたい。
 人生恋が無いと、随分と味気なくツマラナイものになってしまうもんだ。今度は心機一転、エロの時代に、いや失礼、良い女回りの時代、ん?、それも変な言い方だな・・・、ま、とにかく良い時代にしたいもんだ。

 ただ実際のところ、長らく気にかかってることがあって、なかなか新しい恋に踏み出せない、というのが現状ではある。
 正直なところ、恋に関して自分が本当はどうしたいのか?、何を望んでるのか?、かなり混乱した状態にいる、というのが素直なところではある。

 女心とは男子にとっては、いつまでたっても不可解なものだ。
 この歳で未だ独身だと、何か自分に欠陥があるのでは無いかと思われがちだ。
 僕自身は、そんなことは全然気にしてないが、まあこの独り身の時期にもっと女心でも勉強して、もっと成長せえ、欠陥商品と思われないようにせえ、と、そういうことなのだろう、などと思ってる。
 あくまでもモテナイのは家のせいでは無く、己のせいですものね、とほほ。

あれに見えるは花火2007年07月28日

 僕の部屋の小さなベランダ状の場所で座って一服していると、正面の方向に遠く花火が浮き上がってるのが見えた。
どうやら隅田川の花火大会だったようだ。
 ”浅草は、あの辺だったのかあ・・・”などと思いつつ、少し右に視界を移すと、月が明るく大きく怪しげに照っていた。あさってには満月になるようだ。

 浅草の花火は遠く、ほのかに見えるのに、ブラジルやアルゼンチンより遠い所にあるはずの月の方が、随分と近くにあるように写る。
 あのぶんじゃ、あの月、今上野上空あたりくれえだな。
 そう見えてしまう。

怒りを消すには2007年07月29日

 引っ越してから自分の気持ちの中で変わったことが、幾つかある。
 その一つが洗濯に対する怒りが消えたことだ。
 ”あの怒りは一体何だったんだ?”てなくらい、スッと消えた。

 以前は日曜に洗濯するなんて考えられなかった。日曜の夜に洗濯なんて有り得なかった。
 土日と休みがあったら、家事雑用は土曜に全部済ませて、日曜は家事などせずキッチリと自分の時間を持ちたかった。
 それができずに日曜の夜に洗濯しなくちゃならない事態が発生するや、もう僕の怒り、まさに怒髪天を抜き、抜きすぎて宇宙に行っちゃうくらいであった。今洗濯なんかしてる場合じゃネエんだよっ!、と何度衣類を床に叩きつけたことかしれない。

 ところがそれが今や、日曜の洗濯が何でも苦にならなくなった。
 なんなら外出前と後で二回やっちゃうくらいにまでなった。

 なんという変わりようであろうか・・・。

 今は一週間あたりの洗濯回数が増えた。
 一週間あたりの洗濯量は昔と、さほど変わっていないから、一回の量が減った。
 一回の量が減って、尚かつ室内に洗濯を干せるスペースが以前に比べ格段に増えたことで、それが僕を多大に癒してくれた。

 以前は一枚のパンツを物干しハンガーの洗濯バサミ一個に干していた。
 それが今は一枚に2個使って、悠々と拡げて干している。それだけ余裕ができた。乾きもイイし皺も減った。
 下着用のハンガー、パンツ&靴下用と2個ハンガーを分けて干せるようになった。
 もう家の中を歩いて、濡れた洗濯物が顔にぶつかることもなくなった。
 スペースが僕の気持ちにスッカリ余裕を与えてくれた。

 以前は遅く帰った時に、タイマーかけていた洗濯を干さなくてはいけない場面だと、やっぱり怒髪天を抜いていた。
 ところが今は、その怒りも消え、時間が経って無い内に、キチンと干すのが楽しみなくらいになってる。
 なんという変わりようであろうか・・・。

 僕の怒りは洗濯自体にでは無く、家にスペースが無いことに対する怒りの代替だったようだ。
 はけ口が、たまたま家事代表の洗濯に向けられていただけだった。洗濯には申し訳ないことをしたもんだ。

 今や洗濯だけでは無く、風呂や便所掃除に対する怒りも消えた。
 写真はお食事中の方には汚くて申し訳ないが、僕の家の多少乙女チックにコーディネートした便所である。便所だけはとにかくキレイでいつでも行きたくなるようなくらいの所にしておきたい。今の所は築30年でありながら便所結構頑張っている様子が伺えはしないだろうか?。ん?、しない?。んじゃ、ま、いいけど。ちなみにウォシュレットです。

 以前は土日のプライベートな時間がとっても大事で、読書やビデオや散策に時間を割こうと必死になっていたのに、今は掃除して”キレイになったな!”などと悦に入りながら、何をするでも無く、ただ漫然と部屋の中をウロウロぶらついているような、ある意味無駄な時間が増えてしまった。
 昔の僕だったら、そんな時間一切無駄、勿体ない!、と極力排除しようとした時間だったのに・・・。
 なんか今は生活に、すごく無駄な時間が増えてしまったような気がする。
 でもこれは「時間やお金が勿体ない!」というような物質世界的価値観からすれば「無駄」だろうけど、僕自身の気持ちの中では、無駄、では無く、単に今の生活に対して、今まで疎かにしてたモノにシッカリ向き合って、十分に味わっているだけ、なのである。無駄な時間も無駄とは思わなくなってきたのである。

 怒りの原因は、その対象物では無いところに、本当の原因があることは多い。
 なぜなら怒りは二次感情らしいからだ。つまり本当の感情が抑えられると、その代替として発生するのが、怒り、であるからだ。
 僕の場合、狭く汚い所で不自由していた鬱屈が、洗濯に対する怒りになっていたようだ。

 何か気になることを、思い切って変えたり実行してみたりすると、今まで何かに抱いていた怒りが、スッと消えるかもしれない。僕の場合の洗濯のような理不尽な怒りの犠牲者が減って、地球に優しい事態になるかもしれない。